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街道を行け!

街道を行く日記

70年も山に登れば! (2)

2024-11-10 11:52:17 | 旅行

 故郷の山&川

 故郷には吾妻の支流が流れていた。標高2000m山々が囲む、上信越国立の高原台地私のが故郷だ。

 登山との出会い!

 鹿沢♨手前の南向き斜面で、両親はカラマツの植林をしていた。昭和30年初頭、小学校入学前の私は斜面下の林道の端の親が作った小さの焚火の傍で遊んでいた。焚火には薬缶が掛かっていた。林道は湯ノ丸山への登山道でもあった。通り掛かった登山者の一人が『お湯をもらいたい?』と親に声掛けして休憩し、小さな可愛げのない私にもおやつを分けてくれた。これが私の登山との最初の出会いだったと思う。長じるに連れ山は雄大で偉大な遊び場になっていく。

 在日米軍との闘い!

 この頃、朝鮮半島での戦火は消えていたが終結宣言が出されないため、米軍は自衛隊と共に地蔵峠で山岳訓練に励んでいた。家の前の道路を軍の車列が行き来する。戦闘用車両だけでなく、鋼鉄の大きな炊飯器や鍋が引かれて行くのには驚く。こんな面白い見ものを地元の悪童は見逃せない。早速連れだって地蔵峠に遠征した。峠に真ん中が通路、両サイドに50ベッドが据えられたかまぼこ型テントが設置されていた。真ん中の通路を突っ走った。訓練で馴染んだこの地に、夏休みになると米軍家族が宿泊にやってきた。なぜか分からないが田舎の人はよそ者を嫌う。悪童は連れ合い、彼らの泊まる旅館を襲撃した。私は鍵の手の付いた紐を二階の部屋に向かって投げた。小石も投げた。米人の子供は白い顔を真っ赤にして反撃し戦闘が始まった。米軍の大人は笑ってみていた。

 アンパン二個持って

 中学の夏休みはアンパンを二個持って連日、水の塔や籠の塔などの山に登った。家からは片道10km程の工程だ。何だか楽しっかった。

 川干しとヤスと秘密基地

 山地の河は地形が複雑であるが故に、流れが二俣になって流れ下る事が多い。二俣の片側を堰き止めて干す。流れが無くなり動きが悪くなる魚を捕った。河は清流であるためカジカがたくさんいて、それを手作りのヤスで捕った。高原台地の藪にたくさんの秘密基地も作った。基地はそのままゼロ戦の操縦席にもなった。


70年も山を登れば!(1)

2024-11-10 07:47:34 | 旅行

 

 谷川岳を見つめる六平ちゃんのお父さん背中と横顔!

 六平ちゃん

 私が建設省高崎工事事務所に勤め始めた18,19の頃、下豊岡の独身寮の隣の部屋に同じ山岳会に所属する六平ちゃんがいた。私より10歳程年上で赤城村の出身だった。登山に頭からのめり込んでいた六平ちゃんは『土屋君見てみな!』、自分の部屋の木の柱にバイルを打ち込んで片手ぶら下がる、呆れたウラ大技を時々見せてくれた。

 奥秩父

 二人で幾つかの山行を実施したが、50年以上たった今でも思い出す一つの山行がある。50数年前の11月、私たちは雲取山から雁坂峠への一泊二日の縦走をおこなった。しかし、下山時ショートカットをしようとして道に迷った。奥秩父は古い登山道、作業道、トロッコ道、獣道と沢が交錯し、とても迷いやすい。沢に降りて滝に行き詰まり、藪を漕いで尾根に這い上がり、斜面を下り、とうとう夜になった。斜面の太い木の根元でビバークする事にした。当時は一斗缶に食料を詰めて持って行った。ビバーク準備中に一斗缶が『ペコペコ!』鳴る。『土屋君うるさいよ!』六平ちゃんが言った。『六平ちゃん無理だよ。一斗缶はペコペコ言うんだよ!』と、私は無言で必要以上に鳴らした。

 墜落

 この後、谷川岳一の倉沢衝立岩正面壁を完登した六平ちゃんは、下山時に空中を300m程舞い帰らぬ人となった。

 谷川を見つめる六平ちゃんのお父さんの背中と横顔

 土合駅前の茶店が連絡本部となり、六平ちゃん家族も集合した。お父さんは外に出て谷川を見つめた。労働で鍛え上げたお父さんの小さな背中と横顔を今でも忘れない。

 浄土でビール買って!

 六平ちゃんの体は実家の柿の木の下に安置された。私は持ち金の幾ばくかの鐚銭を添えた。先輩達のイカさま麻雀で何時も金の無い私は、山行時の電車賃を何時も六平ちゃんに借りていた。『六平ちゃん。浄土でビールでも買って!』。六平ちゃんは困り顔でほほ笑んだ。