神様の祝福をお祈り申し上げます。
妻はいつも祈り深く慎み深く生活し、家事と伝道牧会を喜びとしています。
私は高槻教会の主任牧師を勤めつつ、
その他、
近畿福音放送伝道協力会(近放伝)の放送伝道や奥びわ湖バイブルキャンプ場などの奉仕に取り組んでいます。
宜しくお願い申し上げます。
私が高槻第一キリスト教会牧師 山口登久です。
先日ある方がこのように言われました。
「以前は、クリスマスが来るからクリスマスを祝っていた。
今はキリストが私たちの為に生まれてくださったので
クリスマスを祝えるようになった」
クリスマスは現在、日本で冬の祭りのように多くの方に祝われていますが、
本当のクリスマスはイエス・キリストのご生誕を記念して祝う
キリスト教会の祝祭です。
ですから、
教会でクリスマスを体験することが本当のクリスマスの祝い方です。
私たちは皆様に本当のクリスマスをご紹介したいと思います。
是非、今年のクリスマスは教会で・・如何でしょうか?
題「伝道者生涯の完成をめざして」
数年前、春の年会において按手礼の恵みに与り、心から感謝しています。
これはただ、主の憐れみと多くの方々の愛と祈りに支えられて今日があることを思っています。
受按後のある朝、一人で静まって祈っていた時に
「あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」(Ⅱテモテ四5)のみことばが魂のうちに語りかけられました。
その時、主の聖なるご臨在に触れると共に、新しい決意が与えられ身が震える思いをしました。
私は伝道者として今年で40年を迎えます。
両親が戦前はホーリネスの中国大陸派遣宣教師として中国武漢市で伝道し、戦後は新潟県で伝道牧会をしていた牧師家庭で育ちました。
初めて献身の思いが与えられたのは小学一年生の時でした。
終戦後数年を経た時でしたが、教会には戦時中の宗教弾圧から解放された方々が年配者から青年まで、主を求めて多く集まって来ていました。
教会学校も大変盛んで若者達が教師として奉仕に燃えていました。
遠い昔の懐かしい思い出です。
父は熱心に伝道に励み、母は主イエス様と家族と信徒達に良く仕えていました。
その姿はまだ幼い私の心に大きな感動を与えました。
ある夏の夕方、いつものように聖書通読をしていた時「主はわが牧者なり。
われ乏しきことあらじ。」(詩篇23編1)が私に深く語りかけられました。
初めてのみ言経験でした。
私も母のように、生涯を主にお仕えしようと思いました。
私が献身に押し出された小さな第一歩でした。
多くの歳月を経て主の明確な召命を受け、東京聖書学院に入学しました。
東京で副牧師を七年間、母教会で一年間、その後、大阪で開拓伝道から始めて32年間の教会形成。
未熟な私ですが、主は私の伝道者生涯を今日まで聖なるご臨在を持ってお導きくださいました。
今年は私の伝道者生涯を回顧する良い年でした。
私の喜びは神が愛しておられる人々のために、いつも霊に燃えて主に仕えることです。
日々完成をめざして、使命の為に新しく生きたいと願っています。
去る年会で按手礼を受けた時も主のご愛を深く感じ、感動で胸が躍りました。
主の召命には大きな責任と緊張を憶えますが「召し給う者は真実なれば」(Ⅰテサロニケ五24)とのみ言に従ってまいります。
私の生涯のビジョンは世界宣教に目を向け、主のみ業の成就のために絶えず祈りの手を上げ続ける者でありたいことです。
その一つに共産圏伝道があります。
私はこのために長い間祈り、重荷が与えられてきました。
1993年、ソ連邦崩壊二年後の混乱したロシアに宣教視察のために入国しました。
そこは74年間の共産党独裁による国家体制と絶対的価値が破綻し、人々が人生の基準と希望を全く喪失した国でした。
しかし、地下教会にはキリスト信仰の純粋な輝きがあり、心飢え乾いて主を求める多くの魂が満ちていました。
「また、福音を語りに来てください!」とのロシア人の叫びは、私にとって〝パウロのマケドニヤの叫び〟のように聞こえました。
私は主の召命によって歩むこの生涯を心から神に感謝しています。
数年前、春の年会において按手礼の恵みに与り、心から感謝しています。
これはただ、主の憐れみと多くの方々の愛と祈りに支えられて今日があることを思っています。
受按後のある朝、一人で静まって祈っていた時に
「あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」(Ⅱテモテ四5)のみことばが魂のうちに語りかけられました。
その時、主の聖なるご臨在に触れると共に、新しい決意が与えられ身が震える思いをしました。
私は伝道者として今年で40年を迎えます。
両親が戦前はホーリネスの中国大陸派遣宣教師として中国武漢市で伝道し、戦後は新潟県で伝道牧会をしていた牧師家庭で育ちました。
初めて献身の思いが与えられたのは小学一年生の時でした。
終戦後数年を経た時でしたが、教会には戦時中の宗教弾圧から解放された方々が年配者から青年まで、主を求めて多く集まって来ていました。
教会学校も大変盛んで若者達が教師として奉仕に燃えていました。
遠い昔の懐かしい思い出です。
父は熱心に伝道に励み、母は主イエス様と家族と信徒達に良く仕えていました。
その姿はまだ幼い私の心に大きな感動を与えました。
ある夏の夕方、いつものように聖書通読をしていた時「主はわが牧者なり。
われ乏しきことあらじ。」(詩篇23編1)が私に深く語りかけられました。
初めてのみ言経験でした。
私も母のように、生涯を主にお仕えしようと思いました。
私が献身に押し出された小さな第一歩でした。
多くの歳月を経て主の明確な召命を受け、東京聖書学院に入学しました。
東京で副牧師を七年間、母教会で一年間、その後、大阪で開拓伝道から始めて32年間の教会形成。
未熟な私ですが、主は私の伝道者生涯を今日まで聖なるご臨在を持ってお導きくださいました。
今年は私の伝道者生涯を回顧する良い年でした。
私の喜びは神が愛しておられる人々のために、いつも霊に燃えて主に仕えることです。
日々完成をめざして、使命の為に新しく生きたいと願っています。
去る年会で按手礼を受けた時も主のご愛を深く感じ、感動で胸が躍りました。
主の召命には大きな責任と緊張を憶えますが「召し給う者は真実なれば」(Ⅰテサロニケ五24)とのみ言に従ってまいります。
私の生涯のビジョンは世界宣教に目を向け、主のみ業の成就のために絶えず祈りの手を上げ続ける者でありたいことです。
その一つに共産圏伝道があります。
私はこのために長い間祈り、重荷が与えられてきました。
1993年、ソ連邦崩壊二年後の混乱したロシアに宣教視察のために入国しました。
そこは74年間の共産党独裁による国家体制と絶対的価値が破綻し、人々が人生の基準と希望を全く喪失した国でした。
しかし、地下教会にはキリスト信仰の純粋な輝きがあり、心飢え乾いて主を求める多くの魂が満ちていました。
「また、福音を語りに来てください!」とのロシア人の叫びは、私にとって〝パウロのマケドニヤの叫び〟のように聞こえました。
私は主の召命によって歩むこの生涯を心から神に感謝しています。
(聖書:詩篇 第84編5~6節)
聖書の言葉
「その力があなたにあり、その心がシオンの大路にある人は幸いです。
彼らは涙の谷を通っても、そこを泉のある所とします。」
(5~6節)
皆様、おはようございます。
今年も秋の良い季節を迎えましたが、いかがお過ごしでしょうか?
ところで、私たちの人生には日々、様々な出来事が起こってまいりますね。
私のような婦人の立場から申しますと、子育ての問題から始まり、子供の進学、就職、結婚、孫の誕生、家庭内の諸問題など。
また、夫の仕事、失業、退職、病気、入院、手術、老後の不安、介護、そして、死別など・・。
人生には数え切れないほどの諸問題が、私たちの上に起こってきます。
私自身も毎年毎年、このような様々な道を通らされ今日まで参りました。
これらは私にとって、人生の大きな諸問題でした。
皆様も同様に、人生の様々なところで「涙の谷」を通られたことと存じます。
しかし、涙の谷がそれで終わらないで、そこを「泉の湧く所」としてくださるのが、
聖書が私たちに教える神の約束です。
この旧約聖書の詩篇 第84編は心の巡礼者の詩です。
作者は昔、戦争の捕虜となり、遠い、遠い異郷の地バビロンに連れて行かれて、苦しい人生を過ごした人であろうと言われています。
この詩篇のテーマは次のようなものです。
「私たちの生涯に、次々と降りかかってくる人生の痛みとなる諸問題があったとしても、
それらが私たちの人生をいつまでも支配続けることは無いのだ!」と言うこと。
また、「私たちをがんじがらめに縛り付けるような大きな問題があったとしても、
神様はそれを打ち破り、そこから私たちを解放してくださる!」ことを
教え、約束しています。
詩篇の記者が「涙の谷を通っても」と語っていますが、
この谷が何を意味しているのかは正確には分りませんが、
どのような人生の極限状況に出会ったとしても、
「ひとたび!」充分な水が注がれるならば私達は生きる者とされると教えています。
皆様は今朝、精神的にも肉体的にも、霊的にも渇き切ってしまっていますか?
「もうだめだ!涙しか出てこない!」という経験の中で生活しておられますか?
しかし、神様はこのような渇き切った私たちの魂も生かしてくださいます。
イスラエルの民は昔、40年間荒野を彷徨いましたが、彼らは「一日たりとも渇くことが無く」、
毎日、毎日、水を供給され続け、彼らの生命は生かされ続けて参りました。
私たちが信じる神様は昔も今も変わることがありません。
以前、私は新垣勉(あらがき つとむ)さんのゴスペル・コンサートに行きました。
新垣さんは戦後の沖縄で、米兵を父に、日本人女性を母に生まれました。
生後間もなく、不慮の事故で失明。
その後、両親が離別。父の帰国もあり祖母の下で成長、
でも、14歳の時には天涯孤独の生涯となりました。
ある時、自殺をしようとしたのですが、一人の牧師との出会いによって、信仰を持ち、
「人生を生き直す」ための勇気と力を得て「立ち直る」ことができました。
今は有名な音楽伝道者として活躍しておられます。
ずっと赦す事ができなかった自分を捨てた両親を、心から赦す事ができたと語っておられました。
神様は激しい涙の谷を通過した新垣勉さんの人生から涙を拭い去ってくださり、
喜びの泉を持つものにしていてくださいました。
イエス・キリスト様は私たちのために、十字架にかかり死んで葬られましたが、
3日目に復活し、今も生きておられる「生ける神」です!
私たちは人生に於いて、様々な涙の谷を通りますが、
私たちにはそこを泉の湧く所としてくださる救い主イエス・キリスト様がおられます。
ですから、この方を今朝も信じて歩みましょう。
皆様の上に、神様の祝福を心からお祈り申し上げます。
聖書の言葉
「その力があなたにあり、その心がシオンの大路にある人は幸いです。
彼らは涙の谷を通っても、そこを泉のある所とします。」
(5~6節)
皆様、おはようございます。
今年も秋の良い季節を迎えましたが、いかがお過ごしでしょうか?
ところで、私たちの人生には日々、様々な出来事が起こってまいりますね。
私のような婦人の立場から申しますと、子育ての問題から始まり、子供の進学、就職、結婚、孫の誕生、家庭内の諸問題など。
また、夫の仕事、失業、退職、病気、入院、手術、老後の不安、介護、そして、死別など・・。
人生には数え切れないほどの諸問題が、私たちの上に起こってきます。
私自身も毎年毎年、このような様々な道を通らされ今日まで参りました。
これらは私にとって、人生の大きな諸問題でした。
皆様も同様に、人生の様々なところで「涙の谷」を通られたことと存じます。
しかし、涙の谷がそれで終わらないで、そこを「泉の湧く所」としてくださるのが、
聖書が私たちに教える神の約束です。
この旧約聖書の詩篇 第84編は心の巡礼者の詩です。
作者は昔、戦争の捕虜となり、遠い、遠い異郷の地バビロンに連れて行かれて、苦しい人生を過ごした人であろうと言われています。
この詩篇のテーマは次のようなものです。
「私たちの生涯に、次々と降りかかってくる人生の痛みとなる諸問題があったとしても、
それらが私たちの人生をいつまでも支配続けることは無いのだ!」と言うこと。
また、「私たちをがんじがらめに縛り付けるような大きな問題があったとしても、
神様はそれを打ち破り、そこから私たちを解放してくださる!」ことを
教え、約束しています。
詩篇の記者が「涙の谷を通っても」と語っていますが、
この谷が何を意味しているのかは正確には分りませんが、
どのような人生の極限状況に出会ったとしても、
「ひとたび!」充分な水が注がれるならば私達は生きる者とされると教えています。
皆様は今朝、精神的にも肉体的にも、霊的にも渇き切ってしまっていますか?
「もうだめだ!涙しか出てこない!」という経験の中で生活しておられますか?
しかし、神様はこのような渇き切った私たちの魂も生かしてくださいます。
イスラエルの民は昔、40年間荒野を彷徨いましたが、彼らは「一日たりとも渇くことが無く」、
毎日、毎日、水を供給され続け、彼らの生命は生かされ続けて参りました。
私たちが信じる神様は昔も今も変わることがありません。
以前、私は新垣勉(あらがき つとむ)さんのゴスペル・コンサートに行きました。
新垣さんは戦後の沖縄で、米兵を父に、日本人女性を母に生まれました。
生後間もなく、不慮の事故で失明。
その後、両親が離別。父の帰国もあり祖母の下で成長、
でも、14歳の時には天涯孤独の生涯となりました。
ある時、自殺をしようとしたのですが、一人の牧師との出会いによって、信仰を持ち、
「人生を生き直す」ための勇気と力を得て「立ち直る」ことができました。
今は有名な音楽伝道者として活躍しておられます。
ずっと赦す事ができなかった自分を捨てた両親を、心から赦す事ができたと語っておられました。
神様は激しい涙の谷を通過した新垣勉さんの人生から涙を拭い去ってくださり、
喜びの泉を持つものにしていてくださいました。
イエス・キリスト様は私たちのために、十字架にかかり死んで葬られましたが、
3日目に復活し、今も生きておられる「生ける神」です!
私たちは人生に於いて、様々な涙の谷を通りますが、
私たちにはそこを泉の湧く所としてくださる救い主イエス・キリスト様がおられます。
ですから、この方を今朝も信じて歩みましょう。
皆様の上に、神様の祝福を心からお祈り申し上げます。