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高槻第一キリスト教会の四季便り

日本ホーリネス教団高槻第一キリスト教会(山口登久牧師)の教会紹介。

クリスマス チャペルコンサート 2018年

2018-12-09 09:13:18 | 季節




赤穂 美紀(歌手)
ACOON HIBINO(ピアノ)

12月9日(日)午後2:30~3:30
         <開場:午後2:00>

[クリスマス音楽とメッセージの集い]
     - 入場無料 -
どなたもお越しください。(駐車場有り)

定期集会の御案内

2017-07-05 22:22:14 | 季節
高槻第一キリスト教会
<主要な集会案内>

①礼 拝  (日)午前10時半
②聖書研究会(水)午前10時
③祈祷会  (水)午後7時半
④教会学校 (日)午前9時
⑤その他・・ 各地区での集会など。

<道筋案内>
①阪急高槻駅から南へ徒歩15分

②JR高槻駅から南へ徒歩20分

③高槻市営バス 
 JR高槻駅南口 又は、阪急高槻市駅前で、
「富田団地」行き、「柱本団地」行きに乗車する

  (バス路線)
  JR高槻駅南口 →弁天町駐車場前 →阪急高槻市駅前 →高槻市役所前 →城西町
  ※市営バス「城西町」下車、東へ徒歩5分
※ハルキ美容室角入る(1分)

④セブンイレブン高槻城南2丁目店より、南西に1分


⑤「有料老人ホーム朋央(ほうおう)」の西隣り


<教会駐車場>
駐車場(15台分)有ります。


<教会墓地>
高槻霊園内に、当教会の十字架墓地があります。
多くの方々が利用しておられます。

どうぞ気軽にお越しください!



山口牧師からのご挨拶

2016-05-24 14:04:36 | Weblog
神様の祝福をお祈り申し上げます。 妻はいつも祈り深く慎み深く生活し、家事と伝道牧会を喜びとしています。 私は高槻教会の主任牧師を勤めつつ、 その他、 近畿福音放送伝道協力会(近放伝)の放送伝道や奥びわ湖バイブルキャンプ場などの奉仕に取り組んでいます。 宜しくお願い申し上げます。

クリスマスは教会で

2016-05-24 13:38:14 | Weblog

私が高槻第一キリスト教会牧師 山口登久です。

先日ある方がこのように言われました。
「以前は、クリスマスが来るからクリスマスを祝っていた。
     今はキリストが私たちの為に生まれてくださったので
              クリスマスを祝えるようになった」

クリスマスは現在、日本で冬の祭りのように多くの方に祝われていますが、
本当のクリスマスはイエス・キリストのご生誕を記念して祝う
キリスト教会の祝祭です。
ですから、
教会でクリスマスを体験することが本当のクリスマスの祝い方です。
私たちは皆様に本当のクリスマスをご紹介したいと思います。

是非、今年のクリスマスは教会で・・如何でしょうか?


証し「伝道者の完成をめざして」(山口 冨嘉美)

2016-05-24 13:37:53 | Weblog
題「伝道者生涯の完成をめざして」


数年前、春の年会において按手礼の恵みに与り、心から感謝しています。
これはただ、主の憐れみと多くの方々の愛と祈りに支えられて今日があることを思っています。
受按後のある朝、一人で静まって祈っていた時に
「あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」(Ⅱテモテ四5)のみことばが魂のうちに語りかけられました。
その時、主の聖なるご臨在に触れると共に、新しい決意が与えられ身が震える思いをしました。


私は伝道者として今年で40年を迎えます。
両親が戦前はホーリネスの中国大陸派遣宣教師として中国武漢市で伝道し、戦後は新潟県で伝道牧会をしていた牧師家庭で育ちました。
初めて献身の思いが与えられたのは小学一年生の時でした。
終戦後数年を経た時でしたが、教会には戦時中の宗教弾圧から解放された方々が年配者から青年まで、主を求めて多く集まって来ていました。
教会学校も大変盛んで若者達が教師として奉仕に燃えていました。
遠い昔の懐かしい思い出です。 

父は熱心に伝道に励み、母は主イエス様と家族と信徒達に良く仕えていました。
その姿はまだ幼い私の心に大きな感動を与えました。
ある夏の夕方、いつものように聖書通読をしていた時「主はわが牧者なり。
われ乏しきことあらじ。」(詩篇23編1)が私に深く語りかけられました。
初めてのみ言経験でした。
私も母のように、生涯を主にお仕えしようと思いました。
私が献身に押し出された小さな第一歩でした。


多くの歳月を経て主の明確な召命を受け、東京聖書学院に入学しました。
東京で副牧師を七年間、母教会で一年間、その後、大阪で開拓伝道から始めて32年間の教会形成。
未熟な私ですが、主は私の伝道者生涯を今日まで聖なるご臨在を持ってお導きくださいました。

今年は私の伝道者生涯を回顧する良い年でした。
私の喜びは神が愛しておられる人々のために、いつも霊に燃えて主に仕えることです。
日々完成をめざして、使命の為に新しく生きたいと願っています。
去る年会で按手礼を受けた時も主のご愛を深く感じ、感動で胸が躍りました。
主の召命には大きな責任と緊張を憶えますが「召し給う者は真実なれば」(Ⅰテサロニケ五24)とのみ言に従ってまいります。


私の生涯のビジョンは世界宣教に目を向け、主のみ業の成就のために絶えず祈りの手を上げ続ける者でありたいことです。
その一つに共産圏伝道があります。
私はこのために長い間祈り、重荷が与えられてきました。
1993年、ソ連邦崩壊二年後の混乱したロシアに宣教視察のために入国しました。
そこは74年間の共産党独裁による国家体制と絶対的価値が破綻し、人々が人生の基準と希望を全く喪失した国でした。
しかし、地下教会にはキリスト信仰の純粋な輝きがあり、心飢え乾いて主を求める多くの魂が満ちていました。
「また、福音を語りに来てください!」とのロシア人の叫びは、私にとって〝パウロのマケドニヤの叫び〟のように聞こえました。

私は主の召命によって歩むこの生涯を心から神に感謝しています。

説教「涙の谷を喜びの泉へ」 (山口 冨嘉美)

2016-05-24 13:36:41 | Weblog
(聖書:詩篇 第84編5~6節)
聖書の言葉
「その力があなたにあり、その心がシオンの大路にある人は幸いです。
彼らは涙の谷を通っても、そこを泉のある所とします。」
(5~6節)

皆様、おはようございます。
今年も秋の良い季節を迎えましたが、いかがお過ごしでしょうか?

ところで、私たちの人生には日々、様々な出来事が起こってまいりますね。
私のような婦人の立場から申しますと、子育ての問題から始まり、子供の進学、就職、結婚、孫の誕生、家庭内の諸問題など。
また、夫の仕事、失業、退職、病気、入院、手術、老後の不安、介護、そして、死別など・・。

人生には数え切れないほどの諸問題が、私たちの上に起こってきます。
私自身も毎年毎年、このような様々な道を通らされ今日まで参りました。
これらは私にとって、人生の大きな諸問題でした。

皆様も同様に、人生の様々なところで「涙の谷」を通られたことと存じます。
しかし、涙の谷がそれで終わらないで、そこを「泉の湧く所」としてくださるのが、
聖書が私たちに教える神の約束です。


この旧約聖書の詩篇 第84編は心の巡礼者の詩です。
作者は昔、戦争の捕虜となり、遠い、遠い異郷の地バビロンに連れて行かれて、苦しい人生を過ごした人であろうと言われています。

この詩篇のテーマは次のようなものです。
「私たちの生涯に、次々と降りかかってくる人生の痛みとなる諸問題があったとしても、
それらが私たちの人生をいつまでも支配続けることは無いのだ!」と言うこと。
また、「私たちをがんじがらめに縛り付けるような大きな問題があったとしても、
神様はそれを打ち破り、そこから私たちを解放してくださる!」ことを
教え、約束しています。

詩篇の記者が「涙の谷を通っても」と語っていますが、
この谷が何を意味しているのかは正確には分りませんが、
どのような人生の極限状況に出会ったとしても、
「ひとたび!」充分な水が注がれるならば私達は生きる者とされると教えています。

皆様は今朝、精神的にも肉体的にも、霊的にも渇き切ってしまっていますか?
「もうだめだ!涙しか出てこない!」という経験の中で生活しておられますか?
しかし、神様はこのような渇き切った私たちの魂も生かしてくださいます。

イスラエルの民は昔、40年間荒野を彷徨いましたが、彼らは「一日たりとも渇くことが無く」、
毎日、毎日、水を供給され続け、彼らの生命は生かされ続けて参りました。
私たちが信じる神様は昔も今も変わることがありません。


 以前、私は新垣勉(あらがき つとむ)さんのゴスペル・コンサートに行きました。
新垣さんは戦後の沖縄で、米兵を父に、日本人女性を母に生まれました。
生後間もなく、不慮の事故で失明。
その後、両親が離別。父の帰国もあり祖母の下で成長、
でも、14歳の時には天涯孤独の生涯となりました。
ある時、自殺をしようとしたのですが、一人の牧師との出会いによって、信仰を持ち、
「人生を生き直す」ための勇気と力を得て「立ち直る」ことができました。
今は有名な音楽伝道者として活躍しておられます。
ずっと赦す事ができなかった自分を捨てた両親を、心から赦す事ができたと語っておられました。
神様は激しい涙の谷を通過した新垣勉さんの人生から涙を拭い去ってくださり、
喜びの泉を持つものにしていてくださいました。


イエス・キリスト様は私たちのために、十字架にかかり死んで葬られましたが、
3日目に復活し、今も生きておられる「生ける神」です!
私たちは人生に於いて、様々な涙の谷を通りますが、
私たちにはそこを泉の湧く所としてくださる救い主イエス・キリスト様がおられます。
ですから、この方を今朝も信じて歩みましょう。
皆様の上に、神様の祝福を心からお祈り申し上げます。



北米からの来客

2009-04-26 18:48:10 | Weblog
今朝、外国から3名の来客があった。
日本への祈りの旅の途中で、
新大阪駅近くのホテルに泊まっているために来訪してこられた。

一人はカナダ人。
現在は母国に帰国中だが、滞日歴25年という元宣教師。
絵画とクラッシック・カーが趣味だと言う。
自分の趣味を生かして作った今年のカレンダーをプレゼントして下さった。
カナダと米国の祝日が掲載してあり、興味深かった。

他は米国人夫婦。
米国インディアナ州グリンウッドの大きなショッピングモールでスーパーバイザーをしているという。
大きなバッグを抱えて、これから中国、九州、四国への旅。

午後は昼食を共にしながらの親睦。
その後、近くの城跡公園に満開のつつじを鑑賞に行き、
午後4時過ぎ、新幹線で広島に向って出発した。

神様の祝福がありますように

神にゆだねて生きる

2009-01-03 22:33:10 | Weblog

皆様はいかがお過ごしでしょうか?
今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


新年の到来は私達に希望をもたらしてくれるものです。
私は目の前に広がるこの新年に思いを馳せながら今喜びに満たされています。
今年が皆様にとって、昨年よりも素晴らしい良い年になりますようにと切に願い、又、お祈りを致しております。


さて、私達はこのように新年を迎えました。
目の前には「明日」と呼ばれる新しい日々が広がっています。
これらの日々を私達はどのように心を備えてこれから過ごしていけば良いのでしょうか?
聖書は「明日」と呼ばれる新しい日々の過ごし方について、幾つかの事を教えております。


第一は「明日のことを思いわずらってはならない」ということです。

私達の人生を時の流れで区別すると、過去と現在と未来とに分けることができます。
振り返れば過去はそうでしたが、私達の人生は思い煩いで満ちていました。
現在も又、色々な悩みがあり、恐れが満ちています。
残念ですが、これから迎える明日という未来も同じくそうなるだろうと思われます。
しかし、どうぞ知って下さい。
実は、私達の一日一日は神様が私達のために造られており、全ては神様の御手の中にあるのです。
ですから、私達は神様を離れて明日の事をくよくよと心配したり、思い煩うべきではありません。
神様を第一にして生きてまいりましょう。
そうすれば神様は必要な全てを備えてあなたを祝福してくださいます。
もし今、悩みの中にあったとしても解決の道を備えてくださいます。

イエス・キリストの言葉
「明日のことを思いわずらうな。
明日のことは明日自身が思いわずらうであろう」(マタイ6章34節)


第二は「明日のことを誇ってはならない」ということです。

私達は新年を迎えて明日をどのように生きるか?と真剣に考えています。
そして様々な計画をすることでしょう。
次に、自分以上に頼れるものは無いのですから、自分の全力を注いで行動をすることでしょう。
その結果、私達は満足な結果を獲得し、自信を持って力強く生きていけると確信することでしょう。
しかし、私達が全力で物事を計画し、実行したからと言って、いつでも満足できる結果が起こるわけではありません。
例え、明日のことを立派に予測できたとしても、確実にその通りに全てが実現するわけではありません。
私達の明日の人生は不確かなのです。
私達の未来は自分の手の内にはありません。
ですから、自分の知恵や力で何事でもできるかのように思って生きることは現実的に正しい道ではありません。
私達の人生を確かなものにしてくださるのは神様だけです。
故に、私達は自分を誇って生きてはならないのです。

旧約聖書 ソロモンの箴言
「明日の事を誇ってはならない。
   一日のうちに何が起こるかを知ることができないからだ」(箴言27章1節)


第三は「明日の為に備えなさい」と言うことです。

聖書に「あなた方は明日のこともわからぬ身なのだ」(ヤコブ4章14節)とありますが、正直なところ、誰も私達の明日に何が起こり、明日がどうなるのか知りません。
確実なことは、私達はこの世に裸で生まれてきたように、やがて裸でこの世を去らねばならない日がやってくると言うことです。
全ての事に始めがあれば終わりがあるように、人生に始まりの日があれば、やがて終わりの日も確実に来るのです。
ですから、
私達は人生の終わりという「明日の日への備え」をしなければなりません。
私達の未来の全ては神様の御手の中にあります。
ですから、神様を信じて歩むことが最も必要なのです。

「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
  たといその人が倒れても全く打ち伏せられることは無い。
    主がその手をささえられるからである」(詩篇37編23~24節)



クリスマス メッセージ

2008-12-01 21:51:28 | Weblog
クリスマスおめでとうございます。
    
今年もクリスマス・シーズンがやって来ました。    
クリスマスは今日、世界中の多くの人々に喜びと祝福をもたらす世界的行事として知られています。
しかし、多くの人々はクリスマスを12月の冬の文化(祭り)としてしか知らず、聖書が教える本当のクリスマスの信仰的意味を知らないでいることは真に残念なことです。

聖書が教える「本当のクリスマス」とは何でしょうか?
   
1.イエス・キリストが「聖霊によって生まれてくださった出来事」です。(20節)
確かにイエスの父はヨセフ、母はマリアです。しかし、それは地上 的な意味でしかありません。イエスの誕生は聖霊による神の直接的な御介入であると言うのが聖書の教えるクリスマスです。
   
2.イエス・キリストが「私達を罪から救う為に、生まれてくださった 出来事」です。(21節)    
神にとって罪は単なる犯罪行為ではありません。
人間の肉体も霊性も共に根源から滅ぼすサタンの全的な力です。
この罪の力を十字架の死によって滅ぼし、人を罪から解放するために御子が私達 の為に生まれてくださったと言うのが聖書の教えるクリスマスです。
   
3.イエス・キリストが「旧約聖書に言われていた如く誕生された、預言の成就」です。(22節)    
創世記から始めて旧約聖書全体がイエス・キリストの誕生について教えています。キリストの誕生は新約聖書の出来事ではありません。旧約聖書が語る預言どおりに、神が永遠のご計画の中で準備され、それが新約聖書に於いて成就した出来事であると言うのが聖書の教えるクリスマスです。
     
4.イエス・キリストが「永遠に私達と共にいてくださる出来事」です。(23節)  
イエス・キリストは肉体をとって、生涯その民と共に住んでくださいました。そして、地上の生涯を終えた後も、信じる民と共に、永遠まで臨在して下さると言うのが聖書の教えるクリスマスです。

5.イエス・キリストが「人間の歴史の中に2千年前に、歴然として御降誕された出来事」です。(25節)   
誕生物語が詳細に語っているように、キリストの誕生は空想や思い込みの出来事ではありません。これはイエスが歴史的な事実として受肉された出来事であったと言うのが聖書の教えるクリスマスです。

皆様の上に、クリスマスの祝福をお祈り申し上げます。

私の証し: 題「振り返ればそこにある恵み」

2008-08-26 16:18:32 | Weblog

 私は、戦前は中国武漢市で宣教師として、戦後は新潟県で牧師として伝道していた両親の長女として生まれました。幼い頃から、一生懸命に伝道に励み、祈る両親の姿を見て神の臨在を感じ、既に、小学生時代には伝道を手伝い、信徒宅を訪問していました。又、小学校の入学祝いに貰った真新しい旧新約聖書(文語訳)をいつも愛読している少女時代でした。

 ある夏の夕方、いつものように聖書を読んでいました。「主は我が牧者なり。我、乏しきことあらじ」(詩篇23:1)を読んでいた時、このみことばが深く魂に入り込んで来ました。私にとって、初めてのみことば体験でした。


 中学2年生の時、天幕伝道集会が開かれ、ヨハネ3:16のみことばにより、イエス様の救いを信じ、洗礼を受けました。しかし、開拓伝道中の牧師家庭は大変に貧しく、それゆえに、魂にいつも葛藤を覚え、「伝道者になるのは止めよう!」と主の聖前を避けるような青春時代を送っていました。

 二十歳の時、成人式記念聖会に出席しました。その集会で「我は全能の神なり。汝、我前に歩み完全かれよ」(創世記17:1)とみことばをいただきました。私は次々と映し出される自分の不従順の罪を神様に悔い改めた後、真の平安を体験し、湧き出る喜び、感謝、そして、きよめの恵みに預かりました。私にはもうこの道しかない。主の道を歩もうと神様にお従いました。

 やがて、神様により牧師である主人と導かれ結婚しました。けれども、その結婚式の翌日にガンで入院中の父が召され、その翌年には父の後を継いで牧会していた母が突然、脳溢血で召されました。毎日が涙、涙の連続。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ8:20)とイエス様は言われましたが、このみことばを伝道者としての私の身に、深く実感する日々でした。



 人生は涙の谷。しかし、そのどん底のただ中で神様の大きな恵みの業が起こりました。私には青山学院大学を卒業し、外資系会社に勤務していた兄がいました。兄は信徒として教会と家族を支える使命に立っていました。けれどもその時、神様は大きな展開を見せてくださいました。実は、兄は両親が宣教師時代の中国大陸で生まれていました。両親は異国の宣教の地で生まれた初穂である兄を愛していました。その為に、宣教を嗣ぐという意味で兄を「宣嗣(のぶつぐ)」と命名しました。神様へ様々な願いを込めて、自分達の信仰の証詞をしようとしたのだろうと思います。その兄が一切を投げ捨てて献身しました。そして、伝道者となる決心をして主の聖前に立ち上がったのです。

 牧師であった生前の両親の祈りを今も感じつつ、今日も神様の恵みの中で、兄妹共にそれぞれの道で、主の為に奉仕している喜びを感謝しております。

                            山口 冨嘉美