てつやんの日々尽力

健康第一をモットーに、体にいい食のこと、美しい風景、読書等、自分がいいと思ったことを記録していこうと思い、開設しました

立ち寄った富山の美味い食と店

2023年02月02日 | 日記

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今回富山で立ち寄った美味い食のご紹介です。

入善町の手打ちそばの店「あかり」。二種盛り蕎麦をクルミだれで頂いた。

画像:あかりと二種盛り蕎麦

入善町の手作りおはぎの店「半六」。地元産の新大正餅米と、入善海洋深層水仕込みの美味いおはぎを頂いた。

画像:半六とおはぎ

入善町の農産物直売所「ララガーデン」。入善産の特別栽培米「富富富」と、無添加の「富山味噌」を購入。=入善の章その二=に載せた入善産の新米と味噌汁の味噌はこのお店のものです。

画像:ララガーデンとララガーデンで購入の「富富富」と無添加味噌

魚津市の魚津酒造。富山産の酒米「雄山錦」使用の純米酒「ミラたん」を購入。富山のキトキトの魚とよく合うすっきり辛口の美味い地酒です。

画像:魚津酒造とミラたんとキトキトの魚

富山市の体に優しいご飯と雑貨の店「maybe(メイビー)」。7品の旬の野菜中心のおかずと玄米ごはんのmaybeセットを頂いた。

画像:meybeとmaybeセット

 

立ち寄ったお店で、取材で来たことを話すと、「頑張ってくださいね」と言ってもらえたのも大きな励みになった。美味いものを頂き、本当にありがとうございました。

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「長い道」・「少年時代」の舞台を訪ねて =終章=

2023年02月02日 | 日記

兵三先生は入善町での疎開生活で様々なことを体験し、それが作家としての原点となった。人間社会を学び、農作業を通じて農業や食の大切さを学び、また入善町の素晴らしい自然の営みを学んだ。そのことを「長い道」として書き上げたのだ。取材を終えてから読み直してみると、人の心の闇だけでなく、ドイツ文学から養ったユーモアや、メルヘン的な部分を交え、自然風土や食べ物へのこだわりも織り込んだ素晴らしい文芸小説だと感じた。

この取材を終え、内容をまとめていると、取材先のみなさまの協力があり、応援して頂けたからこそ出来たのだ。一人でも欠けていたら仕上げられなかったので、協力して頂いたみなさまに本当に感謝致します。それに地理と文学をこのように繋げることも出来るのだと勉強になった。

最後にもう一度、取材先で協力して頂いたみなさまに、感謝と御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 


「長い道」・「少年時代」の舞台を訪ねて =朝日・高岡・氷見の章=

2023年02月02日 | 日記

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富山へ行くのだから、「長い道」だけでなく、「少年時代」の漫画版や映画版の舞台になった場所にも足を運んでみた。

朝日町は主に漫画版「少年時代」の舞台となった旧山崎村があるところだ。漫画版で出てくる泊駅(映画版では風泊駅)、旧大家庄小学校(現華遊館 映画版の小学校ロケ地)、消防団第一分団、旧山崎小学校(現紅悠館)、吉祥院、山崎神社、長養庵跡(現細野公民館 A先生の疎開先)と、出て来る場所を見てまわった。

画像:左から泊駅・旧大家庄小学校・消防団第一分団・紅悠館・旧山崎小学校・吉祥院・山崎神社・長養庵跡

高岡市と氷見市の境目の高岡市太田に重要文化財の「武田家住宅」がある。ここは映画版「少年時代」のロケに使われた。

画像:武田家住宅

氷見市の「光禅寺」はA先生の生家で、山門をくぐると、A先生のキャラクターの石像が出迎えてくれる。市内にはA先生の作品が展示されている「潮風ギャラリー」があり、ここにはA先生がデザインした氷見市のマスコットキャラクター「ひみぼうずくん」もある。通称「まんがロード」と呼ばれる道には、「氷見のサカナ紳士録」と呼ばれるキャラクターのモニュメントがある。

画像:左から光禅寺とA先生のキャラクターの石像・潮風ギャラリー・ひみぼうずくん・氷見のサカナ紳士録のたこ八とブリンス

=終章=へ続く

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「長い道」・「少年時代」の舞台を訪ねて =文学館の章=

2023年02月02日 | 日記

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富山市の「高志の文学館」のイベントで、兵三先生の作品の展示があり、「長い道」以外の作品の解説もあったので見てみた。その中で「兵三先生の描いたものたちは、つい読者が自らの記憶を辿ってしまう魅力を持っている。不安に生きる時代の心の支えとなり得るものだと感じた」と書かれている。この部分は「長い道」の中にも忠実に描かれている。私はこの中に地理的な要素がいくつかあり、富山の味噌、富山の米、北アルプスの風景、能登半島の見える海岸が書かれているので、ここから調べればなぜ「長い道」を書こうと思ったのか分かるかも知れないと思ったのだが、それは間違いではなかった。この地理的要素も兵三先生のこだわりの部分であり、それらを力強く表現しているのだ。

画像:高志の文学館

兵三先生は「現代にとって文学とは何か」の中で、「私は自分の現実感覚を研ぎ澄まし、普通には見えないものを気づくという一種の浸透力のようなもの自分のものにしたいと思う。そして一つの目ではなく、複眼を自分の中に内蔵したいと思う」と書いている。この複眼の要素は、今回の取材で私も持ちたいと感じた。複眼で見ることにより、様々な発見があるからだ。

今回のまとめで地理的要素を交えて、「長い道」だけでなく他の作品をチェックしてみて、私は次のように感じた。兵三先生も「富山と私」の中に、「ものが豊かなことは結構だが、ただ今の世の中それが度を過ぎているのではないか」ということを懸念している。これは兵三先生が戦争を体験し、ものがない時代を体験し、また疎開生活で農業の大切さや、自然の営みの素晴らしさを作品中に描いている。私もそれを感じたから共感したのだ。兵三先生がこれを書いてから50年近く経過したが、今は当時以上に大量生産大量消費の時代である。ただ食料の自給率や環境問題等を考えると、果たしてこれでいいのか?と疑問に感じる。なのでバランスを取ることが重要なのではないかと感じた。

兵三先生は新聞記事や随筆でも富山のことをたくさん書いている。また越中を舞台にした歴史小説を書く思いもあったそうだが、それを果たせずに38歳の若さで旅立たれた。私は取材を通じて兵三先生は本当に富山に愛着があり、もっと富山のことを書きたかっただろうと感じた。

=朝日・高岡・氷見の章=へ続く

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「長い道」・「少年時代」の舞台を訪ねて =入善の章その四=

2023年02月02日 | 日記

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吉原集落から南へ2キロメートル程行き、旧北陸下街道と交わるところに上原公園があり、ここが旧上原小学校(当時は上原国民学校)である。この間の道が小説の題名になった「長い道」なのだ。潔少年が色々な意味で鍛えられ、成長した場所だ。当時は未舗装で、幅が今の半分程で、大八車(昔のリヤカー)が2台すれ違える程だった。正面には北アルプスの美しい山々が見渡せる。

上原公園に「長い道」の文学碑があり、「その日に限って日本アルプスの山々は僕の心に深い印象を与えた。毎日こんなにすばらしい山々の姿を望み見ながら、学校までの長い道を歩いていたとは、到底信じられないような気がした。それらの山々の美しい壮麗さにまるでその日初めて目覚めたかのようだった。僕の心はきっと毎日のみじめな自分に関わり合い過ぎ、それらの山々の存在を受けとめるだけの余裕を持たなかったのだ」と刻まれている。

この横には東大時代兵三先生と同期だった大江健三郎先生の柏原兵三さんは、ドイツ文学の専門家で、ドイツ留学に根ざした作品もあります。そこでも独特の土地についての感覚がみられますが、とりわけ柏原さんの文学が生彩を発揮したのは、彼の父祖の土地、また疎開して少年期を過ごしました富山県入善町での生活を、実に細かな事実と観察と情感を込めて描くときでした。過去の細部をこのように生きいきと描くことは、文学の一つの形ではありますけれど、日本の現代文学において下火にあったその傾向を、柏原さんは復興したのです。そしてその仕方を促したものに、ドイツ文学の教養と、そして子供の魂を育んだ土地をいつまでも自己の核心におく、柏原さんらしい生き方があったと思います。そのような柏原さんの文学碑が、ほかならぬ父祖の地の、学校跡に建つことを。柏原さんの文学と人となりを懐かしむわれわれ心から喜びます」と心のこもった言葉が刻まれている。私は兵三先生への餞だと感じた。

上原公園の南側に旧北陸下街道が通り、公園南側の道沿いに「上原の丁松」と呼ばれる樹齢400年程の松の大木(約250メートル)がある。これは兵三先生が通っていたときからある松の木だ。この近くに実家のある当時のことを知る方の話では、「私が子供の頃は、街道沿いの黒部川あたりまでたくさん松の大木があったけど、道の拡張で殆ど伐採されてしまった。それと「長い道」の中に松根油の話が出てくるけど、その時に伐採された松もあったかも知れない。あとこのあたりの何代も続く旧家の立派な松の大木が伐採されたのを覚えている。戦争のために馬鹿げたことをしたのですよ」とおっしゃった。

画像:左から上原公園・「長い道」文学碑1と2・上原の丁松・1945年頃の上原国民学校・1927年(昭和2年)頃の上原小学校講堂と奉安殿・1983年(昭和58年)閉校前の上原小学校

当時は吉原集落を南へ行き、線路を渡ったあたりまでは田圃だけだった。今は少し建物があるものの、前方に北アルプスが見える風景は変わらない。ここも吉原海岸のことを話してもらえた方からの話と、今の長い道の写真を元に、当時の長い道を絵で再現してみることにした。実際「その日に限って・・・」の風景は吉原から駅までの道なのだが、こちらは当時杉林等があり、当時と同じように再現が難しいと感じた。一方吉原集落から小学校までの長い道は、建物をなしにすることでほぼ当時と同じように再現出来ると感じたのと、兵三先生が作家になる原点となった場所でもあるからだ。服装は松根油のことを話してもらえた方の話から再現してみた。その話を元に「その日に限って・・・」の場面を再現してみた。吉原海岸と同じように当時潔少年が見たのはこんな風景だったのだと感じ取ることが出来た。

画像:左から今の吉原から小学校(今の上原公園)までの長い道・1945年の吉原から小学校(当時は国民学校)までの長い道

松根油のことを話してもらえた方の話では、「自分達のような泥臭さはなく、異星人に見えた。地元の子は藁草履に肌着一枚と古いズボン姿で、荷物も肩掛けの布かばんか風呂敷包みだったが、兵三君を初めて見たとき、彼は靴と靴下を履き、カッターシャツにきれいな半ズボン姿で、帽子を被り、ランドセルで学校に来た」とのこと。地元でこのような服を持っている子は誰もいなかったそうだ。なのでうらやましいと思った子がいても不思議ではないと感じた。潔少年は勉強もよく出来、すごく物知りだった。このことが嫉妬や劣等感を生み出し、進少年が自分の立場が危うくなると感じて嫌がらせに繋がったのだろう。とはいえ二人のときは将来を話し合ったり、お互いの家を行き来し、一緒に写真館に行ったりと心の底から憎かったわけではないのだ。潔少年も疎開を決めたきっかけである進少年が、自分の理想と違っていたことに気付いて心の葛藤があった。とはいえ同じく心の底から嫌いにもなれなかったのだ。これは人間である以上誰もがあり得る感情のもつれである。私もこの年になったせいか潔少年と進少年、どちらの気持ちも理解出来るのだ。

「柏原兵三の人と文学」の中に、大江健三郎先生は学生時代、兵三先生が色々な意味で整っていることに対して嫉妬したことがあると書いている。文学碑に心のこもった言葉を贈った健三郎先生が嫉妬したことがあるので、人間である以上、心の闇があるのだと感じた。

この体験が兵三先生の作家としての原点となり、「長い道」を書き上げたのだ。地元の方は「作家としてやっていきたいという気持ちが芽生え、その原動力となったのがこの「長い道」での体験だったのですよ。だから何としても書きたかったのでしょう」とおっしゃった。これは当たっていると感じた。実際兵三先生は途中何度か挫折はあったものの、20年近くかかって「長い道」を完成させた。言い換えれば、ここまで書き上げるのに長い道だったとも解釈出来るのだ。

他に当時のことを知る人からの話では、「勉強ばかりしていた」、「「長い道」を書く前に入善に取材に来ていた」、「嫌味な感じがなく優しい人だった」、「本を読むのが上手で、大変な努力家だった」等色々聞くことが出来た。ある方は「東京に戻る頃には地元の子供と変わらないくらい逞しくなっていた」とのこと。兵三先生の吉原での疎開生活は1年程で、この間辛いこともあったが、農作業も一生懸命手伝い、東京に戻る頃には地元の子供と変わらないくらい逞しくなっていたのだ。

その会話の中で共通して話題になったのが、あの頃は子供同士の喧嘩なんてしょっちゅうだった。それによって味方に引き入れたりすることは、ある意味当時の楽しみだったのだとのこと。また隣村の子供から「汝(わ)はどこの奴じゃ!」と絡まれたり、川を挟んで石の投げ合い等しょっちゅうだったとのこと。そうゆう時代だったのだ。当時は戦争の真っ只中であり、話をして頂いた方の中には徴兵で身内を亡くされた方や、爆撃で身内や親戚を亡くした方もいらっしゃった。やはり戦争は酷なものだと改めて感じた。

=文学館の章=へ続く

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