てつやんの日々尽力

健康第一をモットーに、体にいい食のこと、美しい風景、読書等、自分がいいと思ったことを記録していこうと思い、開設しました

「長い道」・「少年時代」の舞台を訪ねて =入善の章その三=

2023年02月02日 | 日記

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「長い道」の冒頭部分「父の故郷である北陸の日本海沿いの半農半漁の舟原村を初めて訪れたのは、昭和19年の6月末のことだった」に出てくる舟原村浜見は、当時下新川郡上原村吉原で、1953年(昭和28年)に入善町と合併し、入善町吉原となった。1945年(昭和20年)頃の吉原集落は、半農半漁の村だった。

入善駅に行ってみた。1945年(昭和20年)当時の北陸線はまだ単線で、列車は蒸気機関車、富山から東京まで約11時間30分かかった。入善駅は優等列車がすべて停まらないので、すべて停まる富山駅から東京間の鉄道の最速所要時間の変化をまとめてみた。

画像:左から入善駅・富山−東京間の鉄道所要時間の変化

入善駅前の道路を西へ行き、少し南へ行くと「シマセ写真館」がある。「長い道」の中で潔少年と進少年が記念写真を撮ったところであり、「少年時代」の漫画版と映画版のモデルにもなった写真館である。店の人に話を聞くと、今のご主人は四代目で、初代のご主人が経営されていた時に実際あったことだそうで、当時の建物も残っている。映画版「少年時代」のスタッフが中の様子を隈無く撮影し、セットとして再現したとのことである。

画像:シマセ写真館

再度駅前の道路に戻り、西へ行き踏切を渡ると、吉原集落へ向かう道がある。潔少年も歩いた道だ。当時は未舗装で、幅も今の半分程だった。

画像:吉原から駅までの道

「長い道」の中に吉原海岸のことがよく出てくる。潔少年が「堤防に立って僕はじっと海を見ていた。海は限りなく青かった。それは僕を吸い込みそうな青い色をしていた。ずっと彼方に能登半島がぼうっと霞んで見えた」と書かれている。当時の堤防の上は潔少年のお気に入りの場所だったのだ。作品中で潔少年が吉原の少年達と出会ったのも、別れたのもこの場所になっている。今は海岸侵食が進み、当時の風景と変わってしまった。当時はどうだったのか調べてみることにした。

当時のことを知る方と一緒に吉原海岸へ行って聞いた話と、貸して頂いた資料と、航空写真を比較してまとめてみた。1946年(昭和21年)と2007年(平成19年)の航空写真を比較すると、当時堤防だった場所から25メートル(一番短い場所)から50メートル(一番長い場所)程浜辺が広がっていたことがわかる。1960年(昭和35年)頃まで当時の堤防近くに漁師の浜小屋があり、ここから20メートル程山側には家屋もあったとのこと。この頃から寄り回り波という高波が浜辺の集落まで押し寄せ、大きな被害が出たので浜辺近くの家屋の人々は被害から逃れるため、山側に家屋を移転せざるを得なくなった。2007年の航空写真では、一番浜辺に近い家屋から当時の堤防までは約100メートル離れている。25メートル程あった小石と砂の浜辺はすっかり侵食され、これ以上の侵食を防ぐためにテトラポットが投げ込まれた。当時の堤防から山側30メートル程は、新たな堤防と道路に変わってしまった。この海岸侵食はダムの建設により海岸への土砂の堆積がなくなったことと、寄り回り波が要因と言われている。

画像上:1946年吉原付近航空写真・画像下:2007年吉原付近航空写 ※国土地理院の航空写真を使用。昔と今を比較するために、地図に少し加工を入れています

兵三先生も当時とすっかり変わってしまった吉原海岸のことを「侵蝕」と「富山と私」の中に書いている。「父の生家は海の近くで、小石と砂浜の海岸と、美しい日本海と、遥か彼方に霞んで能登半島が見えた」とのこと。先程の当時のことを知る方に、当時の浜辺はどんな感じだったか聞いてみると、当時の堤防から小石の浜⇔砂浜⇔小石の浜が25メートル程広がっていた。潜ってカレイを銛で突いて捕まえたり、岩にへばり付いたカキを採ったとのことである。その話と今の吉原海岸の写真を元にし、当時の吉原海岸を絵で再現してみることにした。「長い道」の中の吉原海岸で、潔少年が吉原の少年達と初めて出会った場面と、東京へ戻る前の場面を再現すると、こんな感じになった。当時潔少年が見たのはこんな風景だったのだと感じ取ることが出来た。

画像:左から今の吉原海岸・今の吉原海岸の夕日・1944年の吉原海岸と少年達・1945年の吉原海岸と少年達

=入善の章その四=に続く

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「長い道」・「少年時代」の舞台を訪ねて =入善の章その二=

2023年02月02日 | 日記

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入善町吉原集落の西端に「杉沢の沢スギ」という天然記念物の杉林がある。1967年(昭和42年)と2001年(平成13年)の航空写真を比べてみよう。今入善町の沢スギはこの約2.7ヘクタール(参考までに甲子園球場は約3.9ヘクタール)しか残っていないが、かつてはあいの風とやま鉄道の西入善駅から、今のサンビレッジ(旧横山小学校)あたりの線路より北側に点在しており、その面積は総計約130ヘクタール(甲子園球場の約33倍)あったが、圃場整備(耕地の区画整理や農道の整備)により、1975年(昭和50年)には今の約2.7ヘクタールを残して姿を消してしまった。

画像上:1967年入善付近航空写真・画像下:2001年入善付近航空写真 ※国土地理院の航空写真を使用。昔と今を比較するために、地図に少し加工を入れています 

この杉林は天然の防風林や防砂林の役割を果たし、人々はこの沢から出る湧き水を生活用水や農業用水として利用し、伐採した杉材を住宅や、米作りの稲架(はさ)掛け等に利用し、枯枝は焚き木に、落ち葉は杉葉(スンバ)と言って着火材料として使用された。また子供達にはターザンごっこ等の遊び場だったということで、人々との生活に密接な関係があった。兵三先生も「長い道」の中で「浜見集落(吉原集落のこと)の入口には杉並木があり」と書いているが、これは沢スギのことである。1967年(昭和42年)の航空写真を見れば分かるが、吉原集落の入口あたりに沢スギがあるのが分かる。

画像:左から杉沢の沢スギ1と2・杉沢湧水

入善駅から北東へ3キロメートル程行くと、上に書いたサンビレッジ(旧横山小学校)がある。この東側の道は映画版「少年時代」のロケ地として使われた。撮影期間中舗装を剥がし、草を植えて当時に近い様子を再現したとのことである。

※画像:サンビレッジ東側の道

漫画版「少年時代」の最後に、進一少年が汽車で東京へ戻る風景の中に散居村がある。黒部川扇状地にも散居村があり、列車で東京から富山へ来る場合、昔は泊−入善間の車窓からも見えた。A先生は富山に帰省した際にこれを見て、「ああ富山に帰って来たのだ」と感じ、その風景を描いたのではと感じた。「長い道」には出てこないが、兵三先生にも同じ思いがあったのではと感じた。この風景も富山らしい場所なので調べてみた。

黒部川扇状地の散居村は、江戸時代初期の新田開発とともに始まり、加賀藩の方針や治水対策と共に現在のような形になった。美しい扇央の散居村は、人々が自然環境に適応しながら大変な努力を積み重ねて作り上げた素晴らしい遺産なのだ。1965年(昭和40年)くらいまでは入善駅から泊駅間の広範囲で散居村が見ることが出来たが、今は圃場整備や道幅の拡張で狭範囲になってしまった。上記の入善付近航空写真1967年と2001年を見て比較してみよう。

舟見にある舟見城跡からは、今でも広範囲の散居村が見られる。こちらも圃場整備や道幅の拡張等で昔のままではないが、美しい散居村の集落と、その先には日本海と能登半島が見える。この風景はいつまでも残して欲しいと感じた。

画像上:1967年舟見付近航空写真・画像下:2003年舟見付近航空写 ※国土地理院の航空写真を使用。昔と今を比較するために、地図に少し加工を入れています

 

画像:左から10月の舟見城跡から見た散居村・5月の日の入り前の舟見城跡から見た散居村

地理の取材をし、実際の風景を見て余所者である私はこう感じた。いくら農業生産技術が発達しても、水の恵み(量だけでなく一定の温度で湧き出ること)や気象に関しては、今も昔も神頼みであると先程書いた農業を営んでいる方がおっしゃっていた。水資源が豊かなことや、農業に適した気象条件に恵まれているのは当たり前であると思いがちだが、黒部川扇状地は全国的いや世界的に見ても恵まれた場所である。この世界的にも恵まれた自然環境や、富山らしい風景をいつまでも守って欲しいと願うのである。

富山湾と入善沖の日本海は、北アルプスから川を通じてミネラルの多い水が流入し、天然の生簀になっている。豊かな自然の恩恵が富山に美味い食材をもたらしているのだ。ちょうど新米の時季だったので、この感動を味わえるのは日本人で良かったと実感した。黒部川扇状地の湧き水で炊いた入善産の新米と、入善沖の日本海で採れたキトキト(富山弁で新鮮なという意味)の魚と、入善産味噌の味噌汁は最高のご馳走である。

画像:入善産新米と入善産ブリと入善産味噌の味噌汁

=入善の章その三=へ続く

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「長い道」・「少年時代」の舞台を訪ねて =入善の章その一=

2023年02月02日 | 日記

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まず入善町を知らない人がいるかも知れないので、場所と特徴を地理的に解説します。これは兵三先生の作品中に、富山の米や味噌が美味いということ、日本海(地理学的には黒部市の生地鼻から東側が日本海で、西側が富山湾になる)や北アルプスのことについても出てくるので、押さえておきたいポイントを画像を交えながら解説します。

富山県下新川郡入善町は富山県東部にあり、2022年(令和4年)10月現在、人口約2万3千人の町で、黒部川が形成した広大な扇状地にある。黒部川扇状地の面積は約96平方キロメートル(伊豆大島=約91.1平方キロメートルより少し広い)、入善町の面積は約71.3平方キロメートル(北海道の洞爺湖=約70.7平方キロメートルとほぼ同じ)である。

画像:海側から見た黒部川扇状地

歴史上入善の地名が初めて出てくるのは、古文書によると1130年(大治5年 平安時代後期)頃のことである。

黒部川扇状地は文字通り、北アルプスの山々からの土砂が黒部川に流出し、堆積して形成された扇状地である。今の黒部川の流れは一筋だけだが、昔は幾筋にも別れて日本海に注いでいた。今の入善町付近は江戸時代まで「黒部四十八瀬」と呼ばれ、架橋されておらず、北陸街道では親不知と共に難所だった。入善町に古黒部という地名があるが、これは旧黒部川の川筋だったことから来ている。1885年(明治18年)に現在の川筋になった。

画像:旧黒部川流域図

江戸時代前半まで、北陸街道は三日市(現在の黒部市三日市)から四十八瀬を通り、入膳(今の入善町の中心部で昔はこう書いた。古文書でも入善と書いてあるものもあり両方用いられたようである)を経由し、泊(現在の朝日町泊)までの下街道しかなかった。参勤交代のときもここを通るのは大変だった。なので当時この地を治めていた加賀藩は、1662年(寛文2年 四代将軍家綱の時代)に扇状地の扇頂付近に愛本橋を架け、山沿いの舟見(現在の入善町舟見)を経由し、泊までの上街道が開かれた。上街道経由のほうが遠回りだが四十八瀬を避けられるので、気象による制約の少ない上街道がよく利用された。それでも冬場等川の水量が少ない時期は近道である下街道も利用されたとのこと。ちなみに三日市−泊間は下街道経由で約17キロメートル、上街道経由で約21キロメートルだった。

黒部川扇状地の特徴として、きれいな扇形をしており、扇頂の愛本橋付近を中心に等高線(傾斜)も緩やかに一定間隔でほぼ円形になっており、世界的にも珍しい。これは扇頂から扇端まで黒部川が四十八瀬だった頃に流れを左右に変えながら、ほぼ均等に土砂を堆積していったからである。

画像:黒部川扇状地等高線

黒部川扇状地は水資源に恵まれ、農業が盛んな土地柄である。扇端は湧水が豊かで、昔から主に水田に利用されてきた。扇端は清水が湧き出ている所が多く、名水百選に選ばれている。一般的に扇央は果樹園や茶畑や桑畑(養蚕が盛んだった頃)等に利用されることが多いが、黒部川扇状地は扇頂から扇端間の一番距離があるところで約13キロメートルと短く、傾斜が緩やかで用水が引きやすいことや、湧水が豊かなこと等水資源に恵まれていることから、扇央でも水田が多いことが大きな特徴である。

画像:入善町高瀬湧水

このように黒部川扇状地は豊かな水資源に恵まれた場所であるが、人々は水の恵みを受けつつも、時には水との戦いでもあった。今の黒部川は川筋が1つだけだが、四十八瀬だった頃は流域が広かったことと、当時は治水対策や土木技術が未発達だったので、大雨で洪水になると大災害となり、暴れ黒部として人々に恐れられてきた。

このようにしてこの土地の人々は豊かな水の恵みを受けながら、時には水と戦い、大変な努力を積み重ね、農地を開拓してきた。そして入善町付近は富山県でも有数の米どころとなったのだ。

入善町で農業を営んでいる方に、入善産の米が美味いと言われる理由は?と聞くと、「この黒部川扇状地の豊かな水です」とおっしゃった。北アルプスの雪解け水は約100年の歳月をかけ、黒部川扇状地にミネラルの多い安定した温度の伏流水となって湧き出てくる。この水は天然のクーラの役割を果たし、日中温度の上がる水田も低温の豊かな水のおかげで涼しくなり、これが昼夜の気温差を生むので理想的な米の旨味になるそうだ。

=入善の章その二=へ続く

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「長い道」・「少年時代」の舞台を訪ねて =序章=

2023年02月02日 | 日記

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昨年(2022年)の4月に藤子不二雄A先生(以下A先生と書く)が旅立たれた。私としては子供の頃から親しんだ漫画家だったので、寂しい気持ちになった。記事を読んでいて、作品の一つである「少年時代」は漫画も読んでいなかったし、映画も見ていなかった。みたい気持ちが強くなったので、まず漫画版を読み、続いて映画版も見た。中身の違いが少しあるものの、共通するのは人の心の闇と、理想と現実を上手に描いていると感じた。

この「少年時代」は、柏原兵三先生(以下兵三先生と書く)の「長い道」という原作を元に、A先生が自らの疎開体験も取り入れながら書いたのだと分かった。なので兵三先生の自伝的小説「長い道」を読んでみることにした。

漫画版「少年時代」映画版「少年時代」「長い道」表紙

画像:左から漫画版「少年時代」・映画版「少年時代」・「長い道」表紙

読み終わり、同じように人の心の闇と、理想と現実を上手に描いた作品だと感じた。ただなぜこの作品を書いたのだろう?と思った。自分だったら蓋をしておきたいような内容のことを書いているからである。再度読み直してみると、舞台である富山の山や海の美しさ、味噌や米が美味いことが書いてあり、地理的要素が含まれているのだ。私は学生時代地理を学んでいたので、そこから調べてみたら分かるかも知れないと感じた。それなら富山に足を運んで調べてみようと決めた。今回学んだ(インプット)ことは、インターネットで発信(アウトプット)すれば、「長い道」を読んだ人がより深く理解出来るのではないか?と思ったのだ。

まず「長い道」で気になったところを書き出し、それを元に当時のことを知る方や、地元の方から話を聞ければと思った。次に「長い道」に出てくる地理に関し、舞台である入善町の地理的要素を交えて紹介出来ればいいのではと思った。またインターネットで調べていると、富山市の「高志の国文学館」で9月から12月まで兵三先生の没後50年のイベントがあり、何か参考になることがあるかも知れないと思い、この時期に合わせていくことに決めた。それまでに文学と地理の下調べを済ませ、10月に富山へ足を運んだ。

幸い当時のことを知る方、入善町の地理に詳しい方、文学館の方から話を聞くことが出来、資料を貸して頂けた。これらを繋ぎ合わせ、より深く「長い道」を理解出来た。その取材した内容をこれから書いていきますので、よかったらお付き合いください。

=入善の章その一=へ続く

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