1974年2月15日、ケンタッキー州の小さな牧場で1頭の仔馬が生まれました。
この仔は生まれたとき脚が外向きに曲がっていました。これは競走馬としては致命的です。
それだけならいざ知らず、体ばかりデカくてそれにも増して顔がデカい。
尻尾なんてポニーのように短くて、ついたあだ名は「醜いアヒルの子」・・・。
サラブレッドとしてはあまりにも不細工で、牧場では全く期待されていませんでした。
しかし、この馬は後に競馬史に名を残す名馬になるのです・・・そう、醜いアヒルの子がやがて美しい白鳥に成長し、大空を羽ばたいていったように・・・。
この仔が2歳になった時、キーンランドの2歳選抜セリ市に出すことになりましたが、あまりにも見映えが悪く出場すら断られてしまいました。
血統背景はと言えば、父ボールドリーズニング(Bold Reasoning)は種付け料5000ドル(140万円)という2流種牡馬。母も血統的に一流とは言えません。
仕方なく一般セリ市にたったの1万7500ドル(490万円)の安値で売り出されることになりました。
このとき、たまたまセリ市に来場していたミッキーとカレンのテイラー夫妻は、ジムとサリーのヒル夫妻とともに、ピアソンズ・バーン社の名義で、この仔を1万7500ドルで購入しました。
購入理由は、単に知り合いで獣医のジェイムズ・ヒル氏が選んでくれたから。
この馬がやがてどれほどの富と名声をもたらすか、このときは知る由もなかったことでしょう。
この仔はシアトルスルーと名付けられました。
馬名のシアトルスルーは、テイラー夫妻の故郷であるシアトルと、ヒル夫妻の故郷である湿地帯で有名なフロリダ州(スルーとは湿地のこと)にちなんだ名前です。
シアトルスルーは2歳9月にデビュー戦を向かえると、2着に5馬身差をつけて快勝します。
その2週間後には一般戦で終始持ったままの楽勝。
オーナーは勢いに乗ってシアトルスルーの次走を米国2歳の大レース、シャンペンSに定めます。
いくらデビューからの2戦の内容が良かったからとは言え、周囲はそれほど期待していませんでした。
しかし、レースが終わってみれば9馬身3/4という大差をつけて圧勝したのでした。
それも、前哨戦であるフューチュリティSを制していたフォーザモーメントなど、決して楽な相手ではありません。勝ち時計も1分34秒4という、1967年にヴィトリオリックが記録したタイムを0.2秒縮めるレースレコードでした。
この1戦で、シアトルスルーはエクリプス賞最優秀2歳牡馬のタイトルを獲得します。
ただ、このときのシアトルスルーの評価は決して高くありませんでした。
醜いアヒルの子が白鳥になるにはもう少し、時間が必要なようです。
3歳になってからも、その強さは増すばかりで緒戦のダート7ハロンをまたも大差勝ちのトラックレコード勝ちし、続くG1フラミンゴS(フロリダ地区のケンタッキーダービー前哨戦)、ウッドメモリアルS(ケンタッキーダービー東海岸前哨戦)と連勝する。
これで3歳に入ってから負け知らずの6連勝。
そして、ケンタッキーダービー当日、シアトルスルーは1.5倍の圧倒的1番人気に推されます。
ここで一つアクシデントが起こります。シアトルスルーはスタートでゲートに頭をぶつけ、危うく騎手を落馬させかけたのです。ファンは肝を冷やしましたが、クリュゲ騎手はすぐに態勢を立て直し、最初の400mで逃げ馬のフォーザモーメントを捕まえました。
2頭はぴったり並んだまま直線の入り口に入りましたが、そこでシアトルスルーが突き放し、最後はランダスティーランを1馬身3/4差抑え、先頭でゴールを駆け抜けました。
土つかずのまま臨んだ2冠目のプリークネスS、オッズは1.4倍でした。ここも危なげなく楽勝し、シアトルスルーには史上10頭目となるアメリカ三冠馬の期待がかかります。
・・・しかも、無敗のまま三冠達成となれば史上初の快挙です。
たった1万7500ドルの安馬が、走るたびに輝きをましていくその姿に、人々はアメリカン・ドリームを夢見たことでしょう。
米国三冠最終戦、ベルモントS。
会場にはあふれんばかりの人が押し寄せ、史上2番目の観客動員数を記録しました。
全米が見守る重圧の中、再び1.4倍の人気を背負ったシアトルスルー。
不良馬場にもかかわらず、レースが始まるといとも簡単に先頭に。後は差を広げるだけでした。
2着に4馬身差をつけ快勝・・・アメリカ競馬史上初、無敗の三冠馬誕生の瞬間でした。
偉大なるサイテーション、セクレタリアト、サーバートン達でさえ成し得なかった偉業を達成したのです。
牧場で「醜いアヒルの子」と言われた不細工な馬は、ついに無配の三冠馬という美しい白鳥へと成長したのです。
・・・しかし、喜びも束の間、三冠レース後のシアトルスルーを待っていたのは、偉業をねぎらっての休養ではなく、7月3日に開催されるスワップスSへの参戦でした。
ここでシアトルスルーは、以前下した相手に16馬身も離され、まさかの4着に敗れてしまいます。
三冠レースの後には長期の休養が必要だというターナー調教師の主張は、オーナーの意向と対立し、結局その年シアトルスルーはターナー厩舎を離れることになりました。
シアトルスルーの3歳シーズンは後味の悪い終わり方でしたが、それでもエクリプス賞では最優秀3歳牡馬はもちろん、古馬のフォアゴーを抑えて年度代表馬にも選出されました。
年度代表馬に選ばれてすぐのことでした。
シアトルスルーはウイルス性の大腸炎と思われる難病を患います。
何日も高熱が続き、生命の危機に直面するほどに体調が悪化したことさえありました。
それでも彼は競馬場に戻ってきます。シアトルスルーの類まれなる精神力があったからこそ乗り越えられたのではないでしょうか。
明けて4歳。この年、1歳下の三冠馬アファームドとの初対決を迎えます。
三冠馬同士の対決とあって非常に注目されましたが、ここでも3馬身差をつけ完勝したのはシアトルスルーでした。
この後、ウッドワードSをエクセラー相手にトラックレコードで優勝し、続くジョッキークラブゴールドカップで再びアファームドと対戦することになります。
2頭の米三冠馬は、互いの意地がぶつかりあう中、最初からぴったりと並走する形で超ハイペースでレースを運びます。
結局、アファームドは直線で力尽き、5着という生涯唯一の大敗を喫しました。
シアトルスルーも、さすがにこのレース運びでは苦しかったのか、エクセラーと激しい叩き合いを演じたものの、最後はハナ差及びませんでした。
それでも、2度に渡る三冠馬対決はいずれもシアトルスルーに軍配が上がったのです。
この後、スタイヴェサントHでは134ポンド(約60.8kg)という斤量を背負いながらも楽勝し、競走生活を終えました。
―生涯成績17戦14勝、獲得賞金は120万8726ドル。たった1万7500ドルで買った馬が120万ドルも稼ぐとは・・・まさにアメリカン・ドリームと言えるでしょう。
夢はまだ続きます。
1200万ドルという破格のシンジケートが組まれ、翌年からケンタッキー州のスペンドスリフト・ファームで種牡馬生活に入ると、初年度からいきなりG1馬を輩出し、1984年には二冠馬を出してリーディング・サイアーに。
1990年の1歳馬最高価格となる290万ドルで落札されたエーピーインディは、2年後には年度代表馬に選ばれました。さらにその仔、マインシャフトは2003年の年度代表馬となり、父仔3代で年度代表馬に輝くという偉業を成し遂げたのです。
日本でもタイキブリザードがG1を制覇していますね。
こうして、夢を与える美しい白鳥の血は世界へと羽ばたいていったのです。
余談ですが、シアトルスルーは2002年5月7日、老衰のため28歳で息を引き取りましたが、この日は25年前に自身がケンタッキーダービーを制した記念日でもありました。
ボールドルーラー系といえばジャムデイズ。そのお父さんが今回の主役、シアトルスルーですよねw
ナドのボールドルーラー系を支えているのはこの馬ということで取り上げてみました♪
しかしまぁ、いいかげん「長い!!」とクレームが来そうだなぁ・・・^^;
この仔は生まれたとき脚が外向きに曲がっていました。これは競走馬としては致命的です。
それだけならいざ知らず、体ばかりデカくてそれにも増して顔がデカい。
尻尾なんてポニーのように短くて、ついたあだ名は「醜いアヒルの子」・・・。
サラブレッドとしてはあまりにも不細工で、牧場では全く期待されていませんでした。
しかし、この馬は後に競馬史に名を残す名馬になるのです・・・そう、醜いアヒルの子がやがて美しい白鳥に成長し、大空を羽ばたいていったように・・・。
この仔が2歳になった時、キーンランドの2歳選抜セリ市に出すことになりましたが、あまりにも見映えが悪く出場すら断られてしまいました。
血統背景はと言えば、父ボールドリーズニング(Bold Reasoning)は種付け料5000ドル(140万円)という2流種牡馬。母も血統的に一流とは言えません。
仕方なく一般セリ市にたったの1万7500ドル(490万円)の安値で売り出されることになりました。
このとき、たまたまセリ市に来場していたミッキーとカレンのテイラー夫妻は、ジムとサリーのヒル夫妻とともに、ピアソンズ・バーン社の名義で、この仔を1万7500ドルで購入しました。
購入理由は、単に知り合いで獣医のジェイムズ・ヒル氏が選んでくれたから。
この馬がやがてどれほどの富と名声をもたらすか、このときは知る由もなかったことでしょう。
この仔はシアトルスルーと名付けられました。
馬名のシアトルスルーは、テイラー夫妻の故郷であるシアトルと、ヒル夫妻の故郷である湿地帯で有名なフロリダ州(スルーとは湿地のこと)にちなんだ名前です。
シアトルスルーは2歳9月にデビュー戦を向かえると、2着に5馬身差をつけて快勝します。
その2週間後には一般戦で終始持ったままの楽勝。
オーナーは勢いに乗ってシアトルスルーの次走を米国2歳の大レース、シャンペンSに定めます。
いくらデビューからの2戦の内容が良かったからとは言え、周囲はそれほど期待していませんでした。
しかし、レースが終わってみれば9馬身3/4という大差をつけて圧勝したのでした。
それも、前哨戦であるフューチュリティSを制していたフォーザモーメントなど、決して楽な相手ではありません。勝ち時計も1分34秒4という、1967年にヴィトリオリックが記録したタイムを0.2秒縮めるレースレコードでした。
この1戦で、シアトルスルーはエクリプス賞最優秀2歳牡馬のタイトルを獲得します。
ただ、このときのシアトルスルーの評価は決して高くありませんでした。
醜いアヒルの子が白鳥になるにはもう少し、時間が必要なようです。
3歳になってからも、その強さは増すばかりで緒戦のダート7ハロンをまたも大差勝ちのトラックレコード勝ちし、続くG1フラミンゴS(フロリダ地区のケンタッキーダービー前哨戦)、ウッドメモリアルS(ケンタッキーダービー東海岸前哨戦)と連勝する。
これで3歳に入ってから負け知らずの6連勝。
そして、ケンタッキーダービー当日、シアトルスルーは1.5倍の圧倒的1番人気に推されます。
ここで一つアクシデントが起こります。シアトルスルーはスタートでゲートに頭をぶつけ、危うく騎手を落馬させかけたのです。ファンは肝を冷やしましたが、クリュゲ騎手はすぐに態勢を立て直し、最初の400mで逃げ馬のフォーザモーメントを捕まえました。
2頭はぴったり並んだまま直線の入り口に入りましたが、そこでシアトルスルーが突き放し、最後はランダスティーランを1馬身3/4差抑え、先頭でゴールを駆け抜けました。
土つかずのまま臨んだ2冠目のプリークネスS、オッズは1.4倍でした。ここも危なげなく楽勝し、シアトルスルーには史上10頭目となるアメリカ三冠馬の期待がかかります。
・・・しかも、無敗のまま三冠達成となれば史上初の快挙です。
たった1万7500ドルの安馬が、走るたびに輝きをましていくその姿に、人々はアメリカン・ドリームを夢見たことでしょう。
米国三冠最終戦、ベルモントS。
会場にはあふれんばかりの人が押し寄せ、史上2番目の観客動員数を記録しました。
全米が見守る重圧の中、再び1.4倍の人気を背負ったシアトルスルー。
不良馬場にもかかわらず、レースが始まるといとも簡単に先頭に。後は差を広げるだけでした。
2着に4馬身差をつけ快勝・・・アメリカ競馬史上初、無敗の三冠馬誕生の瞬間でした。
偉大なるサイテーション、セクレタリアト、サーバートン達でさえ成し得なかった偉業を達成したのです。
牧場で「醜いアヒルの子」と言われた不細工な馬は、ついに無配の三冠馬という美しい白鳥へと成長したのです。
・・・しかし、喜びも束の間、三冠レース後のシアトルスルーを待っていたのは、偉業をねぎらっての休養ではなく、7月3日に開催されるスワップスSへの参戦でした。
ここでシアトルスルーは、以前下した相手に16馬身も離され、まさかの4着に敗れてしまいます。
三冠レースの後には長期の休養が必要だというターナー調教師の主張は、オーナーの意向と対立し、結局その年シアトルスルーはターナー厩舎を離れることになりました。
シアトルスルーの3歳シーズンは後味の悪い終わり方でしたが、それでもエクリプス賞では最優秀3歳牡馬はもちろん、古馬のフォアゴーを抑えて年度代表馬にも選出されました。
年度代表馬に選ばれてすぐのことでした。
シアトルスルーはウイルス性の大腸炎と思われる難病を患います。
何日も高熱が続き、生命の危機に直面するほどに体調が悪化したことさえありました。
それでも彼は競馬場に戻ってきます。シアトルスルーの類まれなる精神力があったからこそ乗り越えられたのではないでしょうか。
明けて4歳。この年、1歳下の三冠馬アファームドとの初対決を迎えます。
三冠馬同士の対決とあって非常に注目されましたが、ここでも3馬身差をつけ完勝したのはシアトルスルーでした。
この後、ウッドワードSをエクセラー相手にトラックレコードで優勝し、続くジョッキークラブゴールドカップで再びアファームドと対戦することになります。
2頭の米三冠馬は、互いの意地がぶつかりあう中、最初からぴったりと並走する形で超ハイペースでレースを運びます。
結局、アファームドは直線で力尽き、5着という生涯唯一の大敗を喫しました。
シアトルスルーも、さすがにこのレース運びでは苦しかったのか、エクセラーと激しい叩き合いを演じたものの、最後はハナ差及びませんでした。
それでも、2度に渡る三冠馬対決はいずれもシアトルスルーに軍配が上がったのです。
この後、スタイヴェサントHでは134ポンド(約60.8kg)という斤量を背負いながらも楽勝し、競走生活を終えました。
―生涯成績17戦14勝、獲得賞金は120万8726ドル。たった1万7500ドルで買った馬が120万ドルも稼ぐとは・・・まさにアメリカン・ドリームと言えるでしょう。
夢はまだ続きます。
1200万ドルという破格のシンジケートが組まれ、翌年からケンタッキー州のスペンドスリフト・ファームで種牡馬生活に入ると、初年度からいきなりG1馬を輩出し、1984年には二冠馬を出してリーディング・サイアーに。
1990年の1歳馬最高価格となる290万ドルで落札されたエーピーインディは、2年後には年度代表馬に選ばれました。さらにその仔、マインシャフトは2003年の年度代表馬となり、父仔3代で年度代表馬に輝くという偉業を成し遂げたのです。
日本でもタイキブリザードがG1を制覇していますね。
こうして、夢を与える美しい白鳥の血は世界へと羽ばたいていったのです。
余談ですが、シアトルスルーは2002年5月7日、老衰のため28歳で息を引き取りましたが、この日は25年前に自身がケンタッキーダービーを制した記念日でもありました。
ボールドルーラー系といえばジャムデイズ。そのお父さんが今回の主役、シアトルスルーですよねw
ナドのボールドルーラー系を支えているのはこの馬ということで取り上げてみました♪
しかしまぁ、いいかげん「長い!!」とクレームが来そうだなぁ・・・^^;
今迄、チャット等で「SS出たぁ~」と喜んでいる人に「シアトルスルー?」とボケをかましてた自分が恥ずかしく自己嫌悪に陥っている次第でございます。
良い話ありがとう!
追伸:倒壊さん、こんだけの感動的な話書けるのでしたら、是非週刊Naddopでも執筆をw
わたしだけでしょうかwウルウルww
シアトルスルーも、活躍馬が多くってついにシアトルスルー系が出来ちゃったね~(血統本もシアトルスルー系になってるし)
サンデーサイレンス系って言わないのは、国内に偏ってるからかね?
知らなかったw
さすがデイズの父w
競伝のシアトルスルーって能力低すぎません?w
アメリカじゃ何頭もG1馬を輩出した名種牡馬なんですけどね~。
競争成績だけでなく繁殖成績も優秀というのがまた凄いんですよね♪
雑草血統を一流血統に押し上げた名馬中の名馬だと思っています^^
追伸:Naddopはやっぱりモハさんじゃないとw
To 闘魂さん
これからも泣ける話を取り上げていきますw
競馬って良いものだと思える話を書いていきたいですね~w
To とらさん
シアトルスルー付けたのかぁ^^
サンデーサイレンスの血は産駒が海外の主要なG1を勝っていることもあって、需要もありますし、今後その子孫が海外に輸出され、種牡馬として成功するようであれば系統として認知されるようになるかもしれませんね♪
個人的にはもっとサンデー産駒の種牡馬を輸出して世界に広めてほしいと思います。
To CJさん
おおう!!クレームが><
デイズがナドのシアトルスルーみたいな馬ですよね^^
改めて偉大だなぁ、とw
To けいけいさん
私はタイキブリザードの印象が強いですね~。
シアトルスルーって泥臭いんですよw
血統構成は同じく三冠馬のセクレタリアトと良く似てるんですが、完全に二流血統ですw
イメージはサンデーサイレンスに近いんですが、サンデーは父が一流種牡馬ですから、シアトルスルーの方が純粋な雑草(?)かもしれません。
To ちえさん
名馬なんです^^
・・・なのにあんなにパラ低いんです^^;
これからも色んな馬の話を取り上げていきますのでよろしくです^^ノ
よろしければ「名馬劇場」のバックナンバーも読んでみてくださいね^^
初回の「愛のある結婚」は人気あったなぁw