手塩family”愛”

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実体のある幽霊-カメラが捉えた白き幻影-

2010年12月05日 03時38分36秒 | 倒壊名馬劇場
最初に・・・私は芦毛の馬が好きです。
日本でも多くの芦毛の活躍馬がいて、タマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ、クロフネ等など。
しかし、芦毛の史上最強馬は?と問われたらきっとこの馬ではないかな、と思います。
今回は、そんな1頭の馬の話・・・。

―その瞬間、テレビカメラは最終コーナーを周る馬群を捉えていた。
1954年5月、ベルモントパーク競馬場で行われるアメリカ競馬前半のダートマイル最強馬決定戦、メトロポリタンハンデ(8F)には全米の注目が注がれていた。
先頭は、後続に7馬身差をつけて軽快に逃げるストレイトフェイス(Straight Face)。
直線は短く、この時点で後方からの巻き返しはほぼ絶望的な状況だ。
勝敗は決した・・・普通なら誰もがそう思うだろう。
しかし、全米中継されたこのレース、詰め掛けた観客たちの視線の先は馬群の後方にあった。
そこに絶望の色はなく、誰しもがこれから起こるだろう奇跡を一目見んと期待を込めて大声援を送っている。
ブラウン管の中、白黒で映し出された映像をよく見ると、観客の見つめる先、馬群の最後方にあるのはひとつの「白い影」。
不意にカメラのアングルが切り替わる。
先頭は変わらず楽な手応えで走るストレイトフェイス。
数秒後、もう1度カメラが後方の馬群を捉えると、そこにあったはずの「白い影」が忽然と姿を消していた。
・・・瞬間、場内に大歓声が沸き起こる。
再びカメラが先頭を写し出した時、さっきまで先頭を走っていたはずのストレイトフェイスのその先を、あの「白い影」が突き抜けていた・・・。
「カメラアングルから突如消えてしまう」、「ワープしているかのようだ」、「まるで幽霊だ」・・・カメラマン泣かせのこの「白い影」の正体は、「(サガモア牧場の)灰色の幽霊(Gray Ghost of Sagamore)」と呼ばれた芦毛の馬だった。

父ポリネシアン(Polynesian)、母ゲイシャ(Geisha)。
これだけで血統に詳しい人ならすぐにこの馬の名前に思い至るだろう。
また、この馬の近親を調べると母の母ミヤコ(Miyako)、甥にキモノ(Kimono)という馬もいて、日本とのつながりを想起させる。
余談になるが、馬主の話によるとミヤコという牝馬は日本人の名前からとってつけられたという。
その仔に牝馬ができたとき、ミヤコの連想からゲイシャと名付けたそうだ。
恐らくミヤコという馬名は日本の芸者の名前からとったもので、日本舞踊を舞う芸者の「踊り子」と、父ポリネシアンのイメージから生まれてきた仔にこの名前を与えたのだろう。
ネイティヴダンサー(Native Dancer)、「民族舞踏家」と。

デビュー戦へと向けてカリフォルニア州サンタアニタで調教を積んでいる頃から、ネイティヴダンサーはタイム計測者の注目の的だった。
デビュー前の新馬が併せ馬で400mを23秒で走るのだから当然だ。
その後期待通りデビュー戦を4馬身半差で快勝すると、2歳時には9戦9勝と完璧な走りを見せる。
その内容がまた圧巻で、2歳馬の獲得賞金新記録を樹立、無敗馬タヒチアンキングを子供扱いしたグランドユニオン・ホテルSや、フューチュリティSのダート6.5F世界レコードタイ記録での圧勝劇等、信じられないようなレース振りだった。
そのため、エクスペリメンタル・フリーハンデでも非常に高い評価を得て、往年の3冠馬カウントフリート(Count Fleet)が残した128ポンドのフリーハンデを2ポンド更新する130ポンド(約59kg)に格付けされ、ここでも新記録を達成した。
更に、満場一致で最優秀2歳牡馬に選出されると、史上2頭目となる2歳馬での年度代表馬にまで選出された。
なお、1950~70年までのアメリカでは「デーリー・レーシング・フォーム紙」や「ターフ&スポーツ・ダイジェスト誌」など3団体が独自に年度代表馬を発表していた。
1952年、当時2歳だったネイティヴダンサーはこのうち2団体から年度代表馬に選出されている。ちなみに残りの1団体は3歳馬のワンカウント(One Count) を選出していた。
その後、1971年から年度代表馬は“エクリプス賞”の名のもとで統一され、初めて全米の年度代表馬として2歳馬が選出されたのは1972年のセクレタリアト(Secretariat)ということになる。

2歳馬にしてこれほどのパフォーマンスを見せるネイティヴダンサーに人々は歓喜し、その栄光を称えた。
底無しともいえる圧倒的強さ、破壊的な快進撃・・・常に新しいものを求めて止まないアメリカの国民性にとって、彼は「時代のヒーロー」となったのだった。
生涯22戦全てにおいて1番人気。それも半端な人気じゃない。
信じられないことに、彼の単勝オッズは22戦中21戦までが1倍台だった。
競馬を知らない大人から子供まで、幅広い層から支持されており、まさに「国民的アイドルホース」とも言える存在になっていた。
これは、ネイティヴダンサーという馬のカリスマ性だけでなく、当時の「テレビ時代到来」という時代背景にマッチしたことが最大の要因だったのだろう。

だからこそ、たった一つの敗戦が歴史的事件として語られることになるのだが、これは「アメリカの至宝」と謳われたマンノウォー(Man o'War)の敗戦や、残りわずか5mで神話が崩壊したニジンスキー(Nijinsky)の凱旋門賞と共通するものがある。
1953年、全米中継された第79回ケンタッキーダービー。単勝1.7倍という大本命に推された彼は、前走から連闘で挑んだウッドメモリアルSでの圧勝を含め、全勝記録を11にまで伸ばしていた。
前評判でも、1948年のサイテーション(Citation)以来となる3冠馬の誕生はもはや「必然」とされ、無敗で臨む彼に対し、もはや対抗できる馬などいなかった。
全米が見守る中スタートが切られると、いつも通りの後方待機策でレースを進めていき、楽な手応えで前半を8番手で進む。
そして、最終コーナーを周る頃には「いつの間に?」、と思わせる程スムーズに先頭集団へととりつき、いつもの必勝パターンに入った・・・かに見えた。この時点で誰もが彼の勝利を信じて疑わなかった。
―しかし、このときだけは違っていた。
彼の前を行くダークスター(Dark Star)が予想以上に楽な手応えで逃げており、一向に脚色が衰える気配がない。
予想外の展開に鞍上のグラン騎手は戸惑いを隠せず、デビュー以来初めて追い通しの状況にまで追いこまれた。
そして、何とかアタマ差まで追いつめるも、結局そこでゴールを迎えることとなったのだった。
新聞やマスコミはもちろん、競馬に携わらない一般の市民も含め、無敵のヒーローの敗戦に唖然としたのは言うまでもない。全米中が深い悲しみに包まれた瞬間だった・・・。

ケンタッキーダービーで初めて敗れはしたものの、ネイティヴダンサーは続くウィザーズSを4馬身差で楽勝し、陣営の不安を見事に吹き飛ばして見せた。
2冠目プリークネスSでは、前々走で敗戦を喫したダークスターと再び対戦することになったが、ダークスターは5着に沈み、ネイティヴダンサーは首差で勝利を収めた。
このレース、彼は出走馬7頭中単勝1.2倍という圧倒的1番人気に推されていたため、掛け金プールは当時史上最高記録となる46,012$の赤字を出すという記録のおまけつきだった。
3冠レース最終戦、ベルモントSは距離が2400mの長丁場で、一部距離を不安視する声があったものの、ここでも勝利を飾ったのだった。このときも着差こそ首差に留まったが、恐らくどこまで行ってもその差が縮まることはなかっただろう。
この時の勝ち時計、2分28秒6は当時レース史上3番目の記録という優秀なものだった。

ネイティヴダンサーの精神力は凄まじく、ここまで連戦に次ぐ連戦を重ねているにも関わらず、3冠レース後も休養をはさむことなくドワイヤーSに出走、更に2週間後には、今度は遠いシカゴにまで赴き、当時高額賞金レースで有名だったアーリントン・クラシックをなんと9馬身差で圧勝して見せた。
そこからサラトガへと戻ると、今度は「真夏の3歳最強馬決定戦」と称されるトラヴァーズSを5馬身半差で快勝、更になんと連闘でアメリカン・ダービーにまで出走、128ポンド(約58.1kg)のハンデを背負い、それでも勝利を収めたのだった。
このとき手綱をとったアーカ―ロ騎手は、「圧倒的なパワーとしか形容できない」と称賛の言葉を述べている。

同じ頃、1歳年上のトムフール(Tom Fool)がニューヨークハンデキャップ3冠を達成するなど連戦連勝を続けていた。ネイティヴダンサーとトムフールはともに9月に行われるシソンビーSへの出走を決め、両馬の対決にファンの注目が集まったが、ネイティヴダンサーは前年に患った前脚の骨膜炎を再発させて休養を余儀なくされ、対決が実現することはなかった。
この後3歳時はレースに出走することはなかったが、4カ月の間に重賞レースに10回も出走、しかも10戦9勝という恐るべき成績を残したのだった。
当然のごとく最優秀3歳牡馬の座を射止めたものの、年度代表馬はこの年10戦全勝の記録を残したトムフールに譲ることとなった。
ネイティヴダンサーはこの翌年、1954年にも年度代表馬を受賞することになるのだが、もし仮にケンタッキーダービーを優勝していたら、3冠達成の偉業だけでなく恐らくは3年連続で年度代表馬に輝いていたことだろう。
あのケンタッキーダービーは悔やんでも悔やみきれない1戦だったと言える。

年が明け4歳になったネイティヴダンサーの強さは更に洗練されていた。
この馬の底無しの可能性には、ウィンフリー調教師も恐ろしくなる程だったという。
プリークネスSから重賞7連勝中のネイティヴダンサーが再び競馬場に姿を現したのは5月を過ぎた頃。
足慣らしに6ハロン戦で楽勝すると、続くメトロポリタンH(冒頭のレース)で衝撃的な勝利を飾る。
―もはやアメリカに敵はいない。誰もがそう感じていた。
陣営も国内に敵はいないと見るや、ネイティヴダンサーを凱旋門賞に挑戦させるプランを検討し始めていた。
しかし、この後調教中に故障(骨膜炎の再発により3カ月の休養を余儀なくされる)してしまい、復帰後サラトガで行われたオネオンタH(7F)がネイティヴダンサーにとって最後のレースとなったのだった。

現役最後のレースとなったオネオンタHは、どしゃぶりの雨が降りしきる最悪の不良馬場でのレースだったが、ネイティヴダンサーは全く動じることはなかった。
実に137ポンド(約62kg)ものハンデを背負わされたにも拘らず、斤量が8kgも軽い相手に対して9馬身差をつけての圧倒的勝利を収めたのだった。
しかしこのレース、当時の法律で単勝オッズは1.05倍以上を保障することが義務付けられていたため、圧倒的な人気を集めるネイティヴダンサーの馬券は発売すると赤字になる可能性があると判断した主催者側が急遽発売を中止していたのだ。
こうして、ネイティヴダンサー最後のレースは、前代見聞の「観覧競馬」になったのだった。
その年の8月下旬、調教を終えたネイティヴダンサーにハ行が認められため、検査をすると前肢に屈腱炎を発症していることが判明。オーナーのヴァンダービルト氏は直ちにネイティヴダンサーの引退を決断(これにより凱旋門賞遠征の計画は立ち消えとなった)し、種牡馬としてサガモア牧場で繋養することを発表した。
なお、この年はシーズン途中で引退したため3戦3勝の成績に終わったものの、前述した通り生涯2度目の年度代表馬に選出されている。

―そして引退後。
戦績、人気とも超一流のネイティヴダンサーだったが、種牡馬として成功したかというと疑問符がつく。
カウアイキング(Kauai King)、ダンサーズイメージ(Dancer's Image)など44頭のステークスウイナーを輩出してはいるものの、自身を超えるような馬は遂に現れず、現役時代に残した偉大な功績に比べれば、種牡馬としては凡庸な結果だったと言えなくもない。
しかしながら、種牡馬入りした当初から5,000$という当時としては破格の種付け料が設定され、それでも申し込みが殺到、1966年にはボールドルーラー(Bold Ruler)に次ぐリーディングサイヤーランキング第2位にもなっている。
また、最終的には種付け料も20,000$まで高騰しており、決して失敗したとは言えないが、それでも物足りないと感じさせるのはネイティヴダンサーだからこそなのだろう。
しかし、この馬の真価が発揮されたのは父としてではなかった。
後継種牡馬のレイズアネイティヴ(Raise a Native)から出たミスタープロスペクタ-(Mr. Prospector)は20世紀を代表する世界的大種牡馬へと成長し、数多の名馬を世に送り出し、その父系を世界中に繁栄させている。
母の父としても名馬にして世紀の名種牡馬、ノーザンダンサー(Northern Dancer)を輩出し、その血を血統表に残している。
このように、父としてよりも父の父、或いは母の父として大きな影響を残しているのだ。
そしてまた、この血脈には不思議な特徴もある。突然、予想もしないようなところから人知を超えた名馬が現れるのだ。
世紀の名馬と謳われたシーバード(Sea Bird)はまさにその代表格で、日本においてもオグリキャップがそれに該当するのかもしれない。
だからもし、雑草と言われるような血統背景から信じられない能力を持った馬が世に出てきた時、その血統表にネイティヴダンサーの名があるかどうか探してみてほしい。

1967年11月16日、ネイティヴダンサーはペンシルヴェニア大学の獣医診療所で亡くなった。
小腸癌を患っていたということだった。
18歳という種牡馬としてはまだ早い訃報に、アメリカ全土が悲しみに包まれた。
国民に愛されたスーパーヒーローが亡くなったその日、生まれ育ったサガモア牧場の電話は一日中鳴り止むことがなかったという―。

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1 コメント

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Unknown (hana)
2010-12-06 00:21:11
実体のある幽霊-カメラが捉えた白き幻影-
倒壊名馬劇場

これで十分判りましたw
文量内容共に毎回凄いですな。
次回も楽しみに待ってま~す
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