い き る

国家試験に向けてのわたしプラスぬこにゃん

人と真面目に向き合うこと

2011-03-05 00:58:04 | 日記
人と真面目に向き合うってどういうことなのか。相手の話を聞く。相手の性格を知っていること?相手がどういう人間かを知ろうとすること?どういう人間か知る為には?みんなは出来ているのだろうか。わたしの性格がねじれていて、わたしだけが出来ていないのだろうか。もしそうならもう自分というものが分からない。だって知り合いはたくさんいる。よく話す。笑い合う。共感もする。それだけでは実際は相手を知ろうとしていなかったのか。共感することについて、共感すると言うと、相手と気が合って相手の気持ちが分かり、仲が深まりお互いを知り得ることのように感じる。けど実際は自分本位なことかも知れない。自分が周りと同じであることで安心感を得る確認作業なのか?そんな偏屈なことを考えのはわたしだけ?わたしだけか否かが気になるわたしはやはり自己中?自分の世界を掘り下げて周りのことをよくよく考えいると自分では感じて思っていたけど、実際は自分に関することばかりだったような気がする。周りのことについて考えて、決めつけず、様々な方面を考え見て、こうかもしれないし、ああかもしれないと、決めつけないよう決めつけないよう、相手の
ことを考えていると思っていた。それだけでわたしは相手を知った気になっていたのかもしれない。こうかもしれない、ああかもしれないという憶測だけで済ませ、実際に相手と話し、確認をしていない。そうだ、していない。今日、人と真面目に向き合うことをした方がいいと、手相を見てもらった人に言われた。最初にも言ったが、わたしはひねくれているのか。ねじれているのか。そう思うと悲しい。どうにか否定しようとしてしまう。まず認めずに、良いように解釈しようとする。でもそれは誰もが同じだと思う。思いたい。でもそれはそれとして、わたしは感覚がおかしいと思う。どこか壊れているのか、歪んでいるのか、はたまたみんなにあるものがないのか。複数で盛り上がっているときは、ふざけたり、しゃべる。しかし2人になるとどうだろう。相手に対してなにも浮かばない。聞くことも聞きたいと思うこともない。思い出を浮かべて語る事もしない。と言うか出来ない。そこまで頭がまわらない。何度も繰り返す自分の心配ネタを話して大丈夫だよ~で終わり。なんてつまらない人間なんだろう!相手に興味がなく、自分中心と言うことがよく分かる。なぜこのような
人間になったのか。なぜ自分本位になったのか。まずわたしは人の言葉をあまり信用しない。ああ、もしかしたら疑うことしかしていないかもしれない。ああもう自分が嫌だな。小さい頃から親の喧嘩を見てきたし、聞いてきた。お父さんはお母さんに暴力を振るう。お父さんはわたしには暴力は振るわない。お母さんがわたしを怒っているのを見ると、お父さんは怒ってお母さんを殴っていたような気がする。たしか。もう小さい頃からそうでそれが当たり前のように頻繁にあったせいか、わたしは記憶にあまり残っていない。当たり前の出来事だから覚えていないのか?もしくは、喧嘩が始まると物心つく頃には、いや、喧嘩が始まる前に違う部屋に逃げていたせいか、耳をふさいでいたせいか、巻き込まれないように、逃げた部屋の戸が開かないように寄りかかって喧嘩が収まるのを待っていた。当たり前のことで、またか。としか思わず、部屋に隠れる。お母さんが殴られても何も思わなかった。ただただ怒鳴り声や金切り声を聞きたくなかった。巻き込まれたくなかった。ほとんど記憶にはないが、お母さんはわたしに少なからず当たっていたと思う。少なからずと言うか、記憶が
ないからなんとも言えない。でも元々の性格か知らないが短気であることは確か。覚えているのは宿題。多分算数の宿題をやっていてお母さんに教えてもらったけど分からないでいたら、なんでこんなんも分からないのと怒鳴られ思い切り叩かれたと思う。出来るまでごはん抜きとも言われた気がする。だから。多分そういう嫌な悲しい思いをしたから、お母さんが殴られていても何も感じないのかも知れない。そういった夫婦喧嘩?はキリなくあるが、だからと言ってわたしは学校ではとても元気。今思えば、昔から今現在までわたしの友達付き合いはすべて馴れ合いであったかも知れない。だんだんと自分が築き上げてきたと思っていた人間関係も、なくても同じなんだというような気がしてくる。疲れたしもう寝よう。続きはまた今度。

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