受戒の法は、応に三衣・鉢具并びに新浄の衣物を備うべし。新衣無きが如きは、浣染して浄めしめよ。入壇受戒は、衣鉢を借賃することを得ざれ。〈中略〉若し衣鉢を徣借すれば、登壇受戒すると雖も、竝びに得戒せず。
『禅苑清規』巻一「受戒」項
このように、非常に厳しく「三衣」の必要性を説くのである。それで、現状の得度作法であれば、三衣を授ける際に、それぞれ唱えるべき文言が定められている。
・菩薩大士一心に念じたまえ、我れ弟子某甲、此の安陀会・五条衣、一長一短の割截衣を受けて持つゆえに。
・菩薩大士一心に念じたまえ、我れ弟子某甲、此の鬱多羅・七条衣、両長一短の割截衣を受けて持つゆえに。
・菩薩大士一心に念じたまえ、我れ弟子某甲、此の僧伽黎・九条衣、両長一短の割截衣を受けて持つゆえに。
よって、以上のことから三衣を授けるのは当然のことだといえる。ところが、聞いてみると、意外と九条衣を授けていない場合が多い。拙僧は黒い九条衣を授けてもらった記憶があるので、師匠はおそらく作ってくれた(法衣店に頼んだ)と思うのだが、そういえば、それを着けたことはない。その理由として、現状の宗制(「曹洞宗服制規定」)で「上座」「座元」という僧階では、「九条衣」披着の許可がなされていないためである。
分かりやすくいうと、出家得度してからしばらくの間は、「九条衣」を着けてはならないということだ。そして、何故そうなっているかというと、もしかすると先行研究も存在するかもしれないが、その辺、見たことが無いので、あくまでも拙僧自身の管見ではあるけれども、江戸時代の制度が影響していると思われる。
享和元年(1801)12月、関三刹が寺社奉行所に対して提出した「曹洞宗衣体の事」という「書上」から、以下のように定められていたことが分かる。
一、沙弥並びに遍参の僧、袈裟衣の次第。衣は紺黒色、或いは蝋引布・麻細美の類を着用し仕る。但し、袖袗附くるの儀は相成らず候。袈裟は九条・七条は右同様、布麻紺黒色にて着用し仕る。五条衣、平日は掛落と相唱え申し候。是れは遍参中も絹紗・縮緬・綸子・純子の類、黒紺色にて着用し仕り候。
一、江湖頭相勤め候の長老の袈裟の次第。衣は黒紺色にて紗・綟子・絹紬・縮緬の類にて、袖は色袗附きを着用し仕り候。袈裟は九条・七条・五条ともに絹紗・縮緬・綸子・純子の類、黒紺色にて着用し仕り候。
但し一生出世の望み無きの塔司等へ住職仕り候の平僧着用の衣は、黒紺色の紗・綟子にて袖袗附け候儀は相成らず候。袈裟は七条・五条、絹紗・綟子の黒紺色にて着用し仕り候。
一、御綸旨頂戴し転衣の和尚の袈裟次第。衣は紫衣を除き、何色にても色衣を着用し仕り候。袈裟は廿五条・九条・七条・五条等、錦・金襴・金紗、其の外諸品の色の袈裟を着用し仕り候。
横関了胤先生『江戸時代洞門政要』112~113頁、訓読・下線は拙僧
敢えて分かりやすいように下線を引いてみたので、そこをご覧いただきたいのだが、いわゆる法地寺院では無くて、当時「平僧地」と呼ばれていたような寺院に住持した「平僧」という僧階の者は、御袈裟について「七条・五条」の2つしか着けてはならないことになっている。これは、平僧の立場である限り、いわゆる「出世(世に自らの僧侶としての力量を知らしめること)」をしないため、正式な「説法」をする機会が無いこと(九条衣は「説法衣」という別称の通り、上堂などの説法を実施する際に着用する)を意味している。実際に時代が変わって明治36年(1903)12月に告諭として発布(翌年元旦をもって施行)された「曹洞宗服制規程」でも、「九条衣」については、戒師・導師・焼香師などに披着を許すのみであるから、出家してすぐの者に着けて良いとはしていない。
なお、先に引用した江戸時代の「書上」の一節には、最初の項目に「沙弥」のことが出ていて、「九条」の表記があることから、江戸時代は沙弥でも九条衣を着けていたのかもしれないが、結局、九条については「説法衣」という定義が重視されたのだと思われる。
そうなると、弟子を育てる側の者としては、「着けられないなら、渡さなくて良いだろう」という観念が働くことが推測され、しかも、それは仕方のないことだと思う。そこで、拙僧的な折衷案を出すとすれば、ここで最初に授ける御袈裟について、得度作法では製縫する際の生地の取り方(両長一短)についてのみ書いてあることに注目し、色と大きさ(まぁ、大きさは本来、その人の体格に合わせて作るものだけれども、あくまでも折衷案だから)について度外視し、予め色の付いた、模様の入っていない九条衣を授けるのはどうだろうか?体格などについても、だいたい両親・祖父母にまで遡れば、推定可能であろうから、これは出来ない話では無いと思う。
どうせ、授けても着けられないのだから、将来着けられるように授けておくという発想だ。しかも、こういっては何だが、宗制にも違反しないし、『行持軌範』にも反しない。問題は無いと思うが、本気で考えるとどうなのだろうか?
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