つらつら日暮らし

「三十七道品」の話

今日は3月7日なので、「三十七道品」の話をしておきたい。ところで、これは何かというと、以下の説明などが参考になるだろう。

 「三十七品、是れ菩薩浄土なり、菩薩仏に成る時、念処、正懃、神足、根、力、覚道、衆生来たりて其の国に生ず」。
 三十七品、涅槃に趣く為なり、以て方便有りて能く道品を行じ、二乗地を証せず、故に次を説くなり。
 三十七道品とは、謂わく三四、二五、単七、隻八、合わせて三十七なり。
 三四とは、四念処、四正懃、四如意足なり。
 二五とは、謂わく五根、五力なり。
 単七とは、七覚なり。
 隻八とは、正道なり。
 道品と称するは、道、謂わく菩提なり、品を品類と為す、此の三十七、皆、是れ菩提行に趣く、而も品類の同じからざる有り。
    吉蔵『維摩経義疏』巻2


なお、これは鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』巻1「仏国品第一」への註釈である。それから、吉蔵は上記の「三十七道品」は大乗の修行体系だと考えていることが特徴である。なお、「品類の同じからざる有り」とはいうが、吉蔵が挙げた項目は、結構、一般的なものである。例えば、これも中国で作られた仏教用語辞典のような文献だが、以下のように示す。

三十七道品 四念処・四正勤・四如意足、五根・五力、七覚分、八正道、総じて数を合わせて三十七道品と為す。
 四念処に大小乗の名、異なること有り。
 観身不浄、観受有苦、観心生滅、観法無我、是れ小乗の四念処なり。
 観身如虚空、観受内外空、観心但名字、観法善悪倶不可得、是れ大乗の四念処なり。
    『法門名義集』「功徳品法門名義第三」


ここで注目したいのは、同じ「四念処」に、大小乗で解釈の違いがあるという指摘である。ここで、小乗といわれている「四念処」は、当方も一般的に見たことがある内容だが、大乗については勉強不足であった。そこで、調べてみると典拠となるのは以下の一節だったようである。

 仏、文殊師利に告ぐ、
 若しくは行者、身の虚空の如くなるを見る、是れを身念処と為す。
 若しくは行者、受の内外両間の得ざるを見る、是れを受念処と為す。
 若しくは行者、心唯だ名字のみ有るを知る、是れを心念処と為す。
 若しくは行者、善法を得ず、不善法を得ず、是れを法念処と為す。
 文殊師利、応に是の如く四念処を観るべし。
   鳩摩羅什訳『諸法無行経』巻上


こちらが、大乗の四念処である。仏陀が語る相手が文殊菩薩であることからも、大乗であることは明らかである。更には、四念処について、具体的な身受心法では無く、より理念的な空観を伴っていることも見ておかねばならない。しかし、『法門名義集』では、他の項目については、大小乗の比較をしていないので、四念処のみ有名だったということか。

確かに、八正道に大小乗の違いがあるって余り聞いたこと無い。少なくとも、項目だけであれば。むしろ、解釈のほうが大事で、だからこそ、慧遠『大乗義章』巻13「八大人覚義」とかもあるのだろう。いつも思うのは、この「三十七道品(または三十七菩提分法)」の、「三十七」という数字である。何か意図があったのだろうか?

以前、どこかに書いてあったような気がしたのだが、上手く見付けきれなかったので、別の話題で締めることとする。

次に三十七道品とは、道とは菩薩道なり。品とは支分の義なり。旧訳なり。新に云わく、三十七菩提分法なり。
    頼宝『釈論第一勘注』第三


調べていたら、日本の真言宗の文献で「三十七道品」と「三十七菩提分法」との違いについて論じていたので、取り上げてみた。なるほど、訳し方の新旧の違いだったという。旧訳はともかく、新訳は意図を明示するようになったことは間違いないようだ。3月7日に因んだ一言、とりあえずはこの辺まで、である。

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