つらつら日暮らし

『寿昌清規』に見る「沙弥得度」について

『寿昌清規』について語るには、まず、日本に伝来した禅宗のことを語らねばならない。日本には禅宗が24回伝来したという。無論、この中には日本人僧侶が中国に留学して、教えを伝えて帰国した場合もあるし、中国人僧侶が日本に来て伝えた場合もある。時代も、平安時代末期・鎌倉時代初期から、江戸時代初期までの間の約500年間に及ぶものである。

それで、この24流の内、自らを臨済正宗と名乗っていた黄檗宗を含めて21流までが臨済宗系統であり、曹洞宗系統は3回伝わった。今でこそ、日本の曹洞宗は道元禅師が伝えた系統しか残っていないから、曹洞宗といえば我々になるけれども、大きな流れで見ると、「曹洞宗道元派(或いは永平派)」として相対化されるべきものだといえる。そして、曹洞宗系統の内の最後が、東皐心越(1639~1696)であり、曹洞宗寿昌派として水戸祇園寺(後に曹洞宗道元派へと吸収される)にてその法城を保ったのである。

同派には『寿昌清規』という軌範が残されている。曹洞宗系統である事実には変わりないので、『続曹洞宗全書』「清規」巻に収録されているのだが、本書の解題を行った光地英学先生の指摘によると、ほとんど『黄檗清規』と変わらないという。ということは、本書はいわゆる「明朝禅」の流れを汲むものであるといえる。心越自身も、黄檗宗の隠元の下で修行したとされ、たまに黄檗宗の扱いを受けるほどだから、この辺は致し方ない。ただし、『黄檗清規』『寿昌清規』ともに、江戸時代初期の道元派に影響を与えた可能性があるから、決して無視は出来ない(確かに、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師に酷く批判された事実はあるけれども)。

そこで、『寿昌清規』だが、解題では、東皐心越の著であるとされるけれども、実際には心越の法嗣で、祇園寺6世の法澧天湫が、享保12年(1727)に編集したものであるという。また、先に指摘したように、本書が参照した『黄檗清規』は全10章からなるけれども、本書はその内、「梵行章第五」と「普請章第九」を欠いた全8章からなる。今回見ていくのは、その内「礼法章第七」に収録されている「沙弥得度」項である。『黄檗清規』では「沙弥祝髮」項となっている。「得度」の方が分かりやすいとみて改めたのだろうか?また、ちょっとずつ文面も違ってはいて、その細かな差異に注目されるが、まずは『寿昌清規』を見ておきたい。

  沙弥得度
 凡そ剃度を欲するは、先ず堂頭に白して法名を求むべし。日を選びて供を設け〈淡薄なる者の如し、分に随う〉、日を定む。
 則ち、隔宿に剃頭し、頂心に髪を留む、名づけて周羅と曰う〈梵語に周羅、此に小結と云う。且つ三界九地見修所断八十一品有り。即ち第九地末品煩悩を小結と名づく。微細、除き難し、今此に頂髮を彼の煩悩に喩う。九十六種の外道、皆尽除すること能わず。唯だ仏弟子のみ能く断ずるが故に親しく教師、最後の剃者として彼の為に残結を除き、三界を出世せしむるを表する故なり〉。
 清且(旦か)、方丈中に本師の座を設け、几上に香・花・灯・燭・手炉・戒尺を安じ、卓上に袈裟・鉢・坐具等を排す。
 堂頭、座に拠る。引請、先ず作礼し已んぬ。沙弥をして、炷香・三拝・胡跪・合掌せしむ。引請、浄水を持ちて灌頂す。遂で剃落と為す。沙弥、起身し作礼す。
 次に、引請を礼し、遂で殿に登りて礼仏参堂す〈余事は、『沙弥得度儀軌』に具さなり〉。
    『続曹洞宗全書』「清規」巻・291頁上段、訓読は拙僧。


『続曹全』所収本は、訓点に誤りが多かったので、拙僧の方で勝手に訓読した。その際に、『黄檗清規』「沙弥祝髮」項も参照している。ただし、その最中、両文献に於いて差異がそれなりに大きいことも分かったので、『黄檗清規』については、また何かの機会に記事にしておきたい。

それで、この『沙弥得度』を読んで、幾つかのことが分かった。まず、沙弥になるに及んで、堂頭に対し「法名」を求めることである。以前、【「安名」の語について】を書いたとき、江戸時代の中期には「安名授与」があったとしたけれども、その流れは明朝禅を承けたものであったことが分かった(なお、『黄檗清規』でも同様)。そうなると、確かに面山瑞方禅師がその作法を採用されないのも分かる。

なお、「周羅」についての説明は、『黄檗清規』よりもこちらの方が遥かに詳しい。余程これに思い入れでもあったのだろうか?

それから、儀礼そのものは極めて簡潔で、堂頭と引請(どうも、『続曹全』では、配役としての引請師か、行としての引請かで迷ったようだが、文脈から、前者と判断した)とで沙弥を仕立てる儀式であったようだ。しかも、末尾にある通り、余事は『沙弥得度儀規』にあるのだろう。今回のこれは、ただ「周羅の一結」に対して灌頂し、剃り落としたというだけのようだから、準備されているはずの、袈裟・鉢・坐具などをどう授けたかが分からない。

それで、『沙弥得度儀軌』について拙僧は未見である。ただし、実世界の論文用に参究している瞎道本光禅師『禅戒口訣或問』中に、瞎道禅師が『沙弥得度儀軌渉典集』を「記誌した」と指摘しておられるから、つまり『沙弥得度儀軌』という著作に対して、その典拠などを調べたものだといえよう。無論、これが『寿昌清規』で見える文献を指しているのかどうかは分からないが、非常に気になる。

ということで、今回の記事では、出家時の「安名授与」の原型らしき物が見えたということを報告する記事であった。なお、儀式中、どこで法名を授けたかは、上記の通りよく分からなかった。

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