つらつら日暮らし

道元禅師の「戒牒」の話

現在、大本山永平寺には道元禅師の参学師である仏樹房明全和尚の『戒牒』が残され、また、道元禅師がその奥書として明全和尚の行実を書いておられるため、様々な意味で貴重な文書なのだが、同文書を巡って江戸時代に様々な意見があった。例えば、以下の一節などはどうか?

永平曽て叡岳の菩薩戒を稟持せりといへども、蚤歳より渡宋の志あるが故に、南都の戒壇にて比丘戒を受得せり。この事、永平の伝中に載せずと雖も、其戒牒今に本山に残れり。
    一丈玄長禅師『禅戒問答』、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・301頁


まずは、上記の見解を見ておきたい。これは、道元禅師の受戒の内容を示すもので、一丈禅師は永平寺で円頓戒(菩薩戒)を受けられた道元禅師が、更に中国に渡りたがっていたために、南都(奈良)の戒壇で比丘戒を受けたという。これらは道元禅師の伝記には載らなかったけれども、道元禅師が保持していた『戒牒』が、祖山=永平寺に残されているという。

この見解があるために、拙僧なども道元禅師の『戒牒』の有無について、慎重な判断を下すように心がけてきた。ところで、この文脈に対しては、明確に否定した見解がある。

  永平祖師の戒牒〈第十一〉
 問、永平祖は、叡山にて円頓戒を稟受せりといへども、蚤歳より渡宋の志ありしゆへ、南都の戒壇にて声聞戒を受得せり。この事、永平の伝には無けれども、その戒牒、今に祖山に遺ると聞は実か。
 答、それは一向に虚なり。祖師一生声聞戒を受られしことなし。剃髪の最初に、円頓戒を受け、次に黄龍下正伝の戒を明全にうけ、後入宋して、天童正伝の大戒を得たり。重受して三回なるに、同一の唯菩薩戒なり。ゆへに永平下五百年このかた、児孫伝法の各各、みな菩薩戒の血脈一本にて、菩薩僧を立して、善知識の能事了る。一人も律僧になりたる人なし。もし律僧になるほどなれば、衣を易て律門に入なり。また戒臘の祖山に遺ると謂は、直に見ぬ人の、聞ちがへなり。余は、円成実性禅師の時、祖山へ数十日在留の中に、室内の法宝逐一拝見す。その戒牒と云は、明全和尚渡宋によりて、宋朝の風俗は、官令にて声聞戒を用ふと聞れしゆへに、南都に受戒はせられねども、仮に書して所持せられしなり。その旨を戒牒の末に、永平祖の直筆にて、書副あるなり。上品の行成紙の折本にて、金銀の蝶の文彩、所所に散布す。その写本を余、所持せり。右の問は、一向に無益の閑語なり。
    面山瑞方禅師『仏祖正伝大戒訣或問』第11問答、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・126頁下段~127頁上段、カナをかなにするなど見易く改める


この「問」をご覧いただければ分かるが、完全に一丈禅師の『禅戒問答』を受けて展開されていることが分かる。なお、それぞれの著述時期だが、一丈禅師『禅戒問答』が1742年で、面山禅師『大戒訣或問』が1747年である。つまり、面山禅師の方が後発なわけで、しかも、『大戒訣或問』については、その元になった『大戒訣』に様々な論難等が寄せられたことを記しているのだが、実際には面山禅師自身も、積極的に議論に打って出たことが分かる。

また、一丈禅師『禅戒問答』は刊行されていないはずで、現在『曹洞宗全書』に収録されているのも、写本から翻刻した一本だというが、学僧達の間には出回っていたのか?それとも、先の問者は、ピンポイントで一丈禅師の見解に疑問を寄せたのか?色々と考え出すと面白い。なお、拙僧の手元にも1本、写本があるので、結構出回っていたのかもしれない。

さて、面山禅師の所見だが、まず、永平寺に道元禅師の『戒牒』があるというのは勘違いであり、また、比丘戒(声聞戒)を受けられた説も否定している。また、何故それが分かるかといえば、円成実性禅師(大本山永平寺40世・大虚喝玄禅師:?~1736)の時に永平寺に数十日逗留したという。確かに、1734年当時に面山禅師は永平寺山内の様子を伝える『傘松日記』を著し、その内容からは約20日間程度永平寺にいたことが分かる。そして、その間、永平寺山内の法宝を一通り御覧になったともいう。

そして、道元禅師の『戒牒』とされるのは、実際には明全和尚の『戒牒』のことで、奥書に道元禅師の直筆文があることから、誤解されているのだろうと推定されたのである。

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