つらつら日暮らし

今日は「端午の節句」(令和5年度版)

今日5月5日は五節句の一、端午の節句である。現在の日本では、法律によって「こどもの日」となっているが、これも元々の「端午」が「菖蒲の節句」と別称されることに因み、菖蒲と尚武をかけて、武士の世界でこどもの健やかなる成長を願ったことに由来するとされる。

なお、禅宗寺院で端午の節句が行われる理由としては、中国の行事に由来し、五月の端(はじめ)の五日、つまり五月夏至の端(はじまり)の意味を持ち、端午の称は午月午日午時の三午が端正に揃う日に合わせて行事したという。このように五月五日を端午と明らかに称するようになるのは唐代以後のこととされ、宋代以後には天中節とも呼ばれた。五月五日の五時が天の中央にあたることと、この日の月日時の全てが数字の“一三五七九”の天数(奇数)の中央である“五”にあたることから、天中節と称するという。

この端午には廳香・沈香・丁子などを錦の袋に入れ、蓬・菖蒲などを結び、五色の糸を垂らさせた「薬縷(薬玉)」を作り、柱にかけたり身に付けたりして邪気を払って長命息災を祈った。また、薬狩と称して薬草を集めることも行われた。道元禅師の上堂では4回ほど端午(天中節)に因んだものがあるが、その中には、文殊菩薩が善財童子に薬草を集めさせる話を元に展開しているものが見られるのである。

ところで、いつも拙ブログでお世話になっている三田村鳶魚先生編『江戸年中行事』(中公文庫・昭和56年)を見てみると、当時の江戸市中の庶民が行っていた「端午の節句」の様子を知ることが出来る。

▲五日 端午の御祝儀、〔五雑俎〕古人五午の二字を通じ用ゆるならん、端は始也、端午は初五といはんがごとし、(41頁)

これは、享保年間の年中行事を示した文献なのだが、個人的に理解出来なかったのが、「御祝儀」とあることである。お祝いということだが、誰が何に対してお祝いするのかが分からなかった。そこで、別の文献を見てみると、以下のようにあった。

〔五日〕端午御祝儀諸侯御登城、貴賤佳節を祝ふ(今日より八月晦日迄帷子、袴も単なり)、男子ある家には幟を立軒に菖蒲をふく、(382頁)

こちらは嘉永4年(1851)の記事であるが、端午の御祝儀の場合には、諸侯が登城するという。もちろん、この城とは江戸城のことであるから、この日には各地の大名が江戸城に登ってお祝いをするということなのだろう。貴賤佳節を祝うとあるので、庶民も併せて祝った。そして、男子が家にいる場合には、幟を立てて、軒には菖蒲を葺いておくという。これこそ、菖蒲の節句である。

まだ詳細は理解出来ていないが、とりあえず「端午の節句」についての記述を確認した。

さて、禅林では古来より、端午の節句は夏安居(古来は4月15日から)に入ってから約20日後に行われる儀式だけあって、様々な説示を展開するのに用いられた機会であったことも見逃せない。そこで、今日はそんな端午に関する教えの1つを見ておきたい。

 端午の上堂〈宏智、端午上堂に「五月五日」等と。師、前の如く挙し了って、良久して云く〉、
 五月五日、天中節、遍吉・文殊、俗流を儀う。
 拈来す、一茎の丈六草、養得す、潙山の水牯牛。
    『永平広録』巻4-326上堂


建長元年(1249)に行われたと推定されている「端午の上堂」である、道元禅師は、既に永平寺に入られた後の教えであるが、中国曹洞宗の宏智正覚禅師の上堂を本則として挙し、そして御自身で詠まれた偈頌を付けて転じておられる。なお、宏智禅師の本則は以下の通りである。

 五月五日、天中節。百草頭上に生殺を看る。
 甘草・黄連、自ら苦く甜し。人蔘・附子、寒熱を分かつ。
 薫蕕、昧し難し双垂瓜。滋味、那ぞ瞞ぜん初偃月。
 円明了知、心念閑なり。摩訶迦葉、能く分別す。
 諸禅徳、分別底は、是、意なり。迦葉尊者、久しく意根を滅す。
 円明了知、心念に由らず。
 且く作麼生、得て恰好去。
 人、平らにして語らず、水、平らにして流れず。
    『宏智禅師広録』巻4「明州天童山覚和尚上堂語録」


横着して、『宏智広録』から引いてしまったが、宏智禅師の上堂の意旨は何処にあるかといえば、この5月5日は、様々な薬草を集めて「薬玉(薬縷)」を作ることを習わしとしていたが、その「様々な薬草」を題材にしている。つまり、様々な味わいや効能がある薬草は、それとして機能がこの世界に於いて発現しているという。摩訶迦葉は、そのところを良く分別しており、その分別は、我々の意識がその機能を持っていたと示された。だが、摩訶迦葉尊者御自身は自らその意を断じて鶏足山に籠もって、弥勒菩薩を待ち、その時却って、円満なる智慧が具足したという。

宏智禅師は、そのような平等なる智慧を得れば、何も語ることはないと述べておられる。

さて、道元禅師はこの一則を受けて、更に自らの意を展開された。端午の風習、或いは薬縷の風習とは、元々は世俗の習慣であるが、様々な大乗の菩薩はそれを自由自在に用いたという。いわば、世俗に入り、そして仏身そのものである「草」をもって、潙山が転生した後の水牛を養ったとしている。

この潙山の牛の話とは、超俗的なる出家から、一転して俗の中に生きる菩薩を目指したものといえ、世俗も超俗も超えて、仏身が、仏法が、活き活きとしている様子を示そうとした一偈だといえる。3句目の「一茎草を拈ずる」、4句目の「潙山の水牯牛」、ともに「草」に関連しており、いわば、道元禅師は、薬草の類縁の語を並べられたのである。当然、この「薬」とは、世俗的な薬効を意味しているのではなくて、仏道修行者の迷いを脱するための薬だといえる。

水牯牛というと、まずは南泉普願の話が有名で、南泉は、弟子である趙州が、人は何処に去るのか?と問うたのに対し「山前の檀越家に向かって、一頭の水牯牛と作り去らん」(『真字正法眼蔵』上3則)と答え、潙山霊祐は、「老僧百年の後、山下に向かって一頭の水牯牛と作り、左脇に五字を書して曰く『潙山僧某甲』と」(同前、下209則)と述べたとされる。

ここから無分別の徹底は、俗・超俗の区別も裁つことを把握できよう。今日の記事は、「端午の節句」の記事ではあっても、「こどもの日」の記事では無かったな。

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