つらつら日暮らし

改めて『遺教経』と「波羅提木叉」について(2)

2月に入り、釈尊涅槃会も近付いているので、『遺教経』を学んでおきたいと思うのだが、『遺教経』といえば、やはり「波羅提木叉(戒)」への重視が気になるところである。とはいえ、それが出ているのは冒頭に近い2箇所のみである。既に最初の1箇所は説明したので、2箇所目を見ておきたい。以下のような教説となっている。

戒は是れ正順解脱の本なり、故に波羅提木叉と名づく。此の戒に依因すれば、諸の禅定及び滅苦の智慧を生ずることを得。是の故に比丘、当に浄戒を持って、毀犯せしむること勿るべし。
    『仏垂般涅槃略説教誡経』「二修集世間功徳分」


端的に、戒が「正順解脱の本」だという説示である。この非常に分かりやすい内容が衝撃的だったのか、中国仏教の戒律関係の説示では、頻出する一節でもある。そして、問題なのは、だからこそ「波羅提木叉」であるとしている。つまり、ここで「波羅提木叉」とは、解脱の本だということである。そのためか、幾つかの文献で「亦た波羅提木叉と名づく、此に云わく別解脱なり」ともあるのである。

ところで、何故「波羅提木叉」が「解脱」に繋がるかといえば、戒に依って禅定・智慧が生ずるためであり、よって、浄戒を護持し、違反することがないようにと示しているのである。

 論に曰く、戒に従うとは、是れ戒相なるが故に、広説顕示すべからず、略説して応に知るべし、経の如く「此れ則ち持戒の相を略説す」るが故なり。
 戒は是れ正順なりとは、此に言わく、戒に従い示現するの義なるが故に、此に於いて彼の所説、従うに二種有り、
 一つには従根本戒なり、
 二つには従根本所起成就戒なり。
 従根本戒とは、根本無作の波羅提木叉に順うことを示現す、向いて已に説くが如き故に。
 従根本所起成就戒とは、後際解脱の因を示現し、中際に戒に従いて生ずるが故に、経の如く、「解脱の本」なるが故に、戒は是れ解脱の体なり、能く正に度するが故に、経の如く「故に波羅提木叉と名づく」るが故に。此に言わく、能く身口意の悪を度することを示現し、彼岸成就し三業解脱するが故に。能く諸功徳を生ずるとは、有色の解脱功徳、無色の解脱功徳を示現す、彼の二相、順じて解脱の功徳に相違するも、皆な彼に従いて生ずるが故に、経の如く「此の戒に依因して諸禅定及び滅苦の智慧を生ずることを得る」が故に。
    『遺教経論』


色々と難しいことが説かれているように見えるかも知れないが、実際には、戒に従うことが、何故解脱に繋がるのか?について詳しく説かれているに過ぎない。それで、おそらく一番難しいのは、「能く諸功徳を生ずるとは、有色の解脱功徳、無色の解脱功徳を示現す」である。解脱の功徳に、有色・無色の二種を示している。

一般的に、この場合の「有色」とは、認識すべき色があることを示し、我々自身の通常の三業に由来する認識を指す。一方で、「無色」とは、まさにとらわれるところが無い仏陀自身の認識である。よって、この場合、世間的な功徳も、出世間的な功徳も、両方とも生じることを指している。そして、おそらくは前者は禅定に、後者は智慧に係り、両方とも功徳として現成していくのである。

しかし、その根本はどこまでも「戒」にあることを、上記の経文及び註釈の一節が示したのである。

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