つらつら日暮らし

『梵網経略抄』に見える「捨戒」について

仏教には、「捨戒」という作法が存在する。それは、自ら望んで受けた戒を捨てることを意味する。僧侶であれば還俗を意味することだが、その作法について、以下の記述を見出したので学んでみたい。

捨戒事、不還戒して犯之為罪、棄戒は還戒して犯之無咎、受けたる師の程なる僧に逢て還之、受たる師よりも劣なる僧に逢ては不被還也。
    『梵網経略抄』、『曹洞宗全書』「注解二」巻・624頁下段


まず、上記一節が何をいっているのかを確認したい。ここでは、捨戒のことを述べているのだが、具体的には「還戒」についても指摘されている。これは、戒を受けた人に還すことをいい、またを「棄戒」ともいう。それで、経豪禅師は戒を還してしまった後であれば、特定の戒を犯しても咎は無いとしている。そして、還す際には、自分が受けた師くらいの境涯を持った僧に還すべきで、もし、戒を受けさせてくれた師よりも劣った人相手には、還せないといっているのである。

正直、こういう考えがあることを、拙僧自身は初めて知った。なお拙い調査ではあるが、簡単に調べてみても、結果は出なかった。要するに、該当する先行文脈を見付けきれていないということだ。また、用語として「棄戒」というのはかなり珍しい。一方で、「還戒」については律典などに多く見られる。例えば、以下の一節などはどうか。

 還戒とは、若しくは、比丘の、仏を捨て法を捨て僧を捨て戒を捨て、和上・阿闍梨を捨て、同学和上・同阿闍梨を捨て、比丘・比丘尼・式叉摩尼・沙弥・沙弥尼を捨つと言う。
 汝等、当に知るべし。我れ是の白衣、若しくは沙弥、我が比丘に非ず、沙門に非ず、釈種子に非ず。乃至言わく、我れ汝等との共住を喜ばず。是れを還戒と名づく。
    『十誦律』巻21


ここから、還戒=捨戒であることが理解できよう。ただし、これは、あくまでも比丘戒について論じられていることに注意しておきたい。天台宗で用いられている長講での「受戒」の偈文では、「三宝に帰し竟りて十善を持つ、乃至菩薩大乗戒、禁戒を堅持して欠犯無く、無量生中に捨戒せず」などと唱えられている。禁戒を堅持するからこそ、捨戒しないという意味に取れる文章ではあるが、しかし、一般化すればただ捨戒しないということになりそうだ。更に思想的にも、伝・最澄撰『一心戒体口訣』などでは、「円頓戒体、一得永不失の義有り」などともされているから、やはり日本の天台宗の影響が強い場合、菩薩戒に捨戒の原理が適用出来ると考えていたかどうかは、よく分からない。

先ほど経豪禅師が述べたような還戒する相手として、師匠と同等の境涯を持つ僧であるとは書かれていない。そのため、拙僧の拙い調査では、先に挙げた経豪禅師のご見解が、どこに由来するのかは分からなかったのだが、しかし、初期教団では先に挙げた位置付けが重視されたのであろうか?それとも、菩薩戒には捨戒は無いはずなので、比丘戒(声聞戒)についての知見を発せられただけなのかもしれない。

なお、道元禅師は「捨戒」という用語を用いていないように思われる。『正法眼蔵』「出家功徳」巻で示される通り、「出家・受戒」の功徳を強調しておられ、更には「しるべし、出家して禁戒を破すといへども、在家にて戒をやぶらざるにはすぐれたり」とも示しておられるので、やはり禁戒を犯すことを前にして、捨戒(還戒)するということには成らないように思われる。

今回は、還戒の時の作法について、興味深い一節を見出したので学んでみたが、他の典拠などを見出すことが出来ず、思っていたよりも深めることが出来なかった。

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