つらつら日暮らし

今日は母の日(令和6年度版)

今日は母の日である。元々は英国やアイルランドなどで行われていた「Mothering Sunday」が各地の習俗に入り、成立したとされる。日本では、青山学院で1913年に母の日に因むミサが行われたのが最初とされ、その後、Wikipediaの記述などによると、「大日本連合婦人会」が1931年(昭和6)に結成され、同会が昭和天皇の皇后である香淳皇后の誕生日である3月6日(地久節)を「母の日」としたという。

なお、今回色々と調べてみると、先の青山学院の記述に続く1921年(大正10)に三浦郁之助という人が、『生活と道徳』(丁未出版社)という著作の中で、各家庭で母親の徳を讃えるための「母の日」を作るべきだと提唱していたようだ。しかし、具体的な日付として定めたわけではなく、結果として国内に大きな運動になったわけではないようである。

そこで、先に挙げた「大日本連合婦人会」の見解については、幾つかの書籍を見ることが出来るので、その一つを紹介しておきたい。

  第七 母の日
 三月六日は国母陛下御誕生の地久節であります。大日本連合婦人会並大日本連合女子青年団では文部省の後援で、此の日を「母の日」と称し、「桃の節句」になぞらへて、全国的に皇室の弥栄を祝福すると共に母親礼讃の日と致して居ります。かかる行事は永続的に而も津々浦々まで行き渡ることに依て意義あるものであります。これは児童青年の立場より行ふのが本体でありますが、婦人会としても大いに力を入れなければなりません。
    大日本連合婦人会編・出版『系統婦人会の指導と経営』〔1935年(昭和10)〕189頁、引用に際して漢字を現在通用のものに改める


上記の通り、「母の日」とは、文部省などの後援も受けつつとあるので、或る種の国策として行われていた様子が分かる。おそらくは、この段階で世界戦争に進んでいた日本として、労働力など様々な場面で、女性の力を頼りにし始めていたのだろうか、女性の徳を讃えるための方策として、この日が定められたものと推測出来る。だいたい、「婦人会」とは、文字通り見れば、誰かの妻や母となっている女性ばかりを指すのではないと思われるのだが、当時はそれでも良かったのだろう。今時、この観念で提唱されれば、会員の中から、自分は誰かの母ではないとして、反対意見が出たり、人権問題だというような大ごとにする人もいたかもしれない。まぁ、その当人も、誰かが母親として当人を生んでくれたわけで、その人を顕彰するのだからと考えを柔らかく持ち、良いことだという風な観念を持っていただくくらいが、バランスが取れた態度かな?とも思うが、この辺は難しい。

さておき、上記一節に続いては、具体的な活動が示されているのだが、以下のようなものであった。

・記念誌の発行
・各家庭や村落などでの「母の日」の実施


何を言いたいかといえば、いわゆる「カーネーション」は出てこないということだ。また、先に挙げた婦人会の『沿革史』(昭和17年)という書籍では、この活動が拡大された様子が分かる。

1 学校寄宿舎等を中心として行ふ事例
(1)講演、講話
(2)桃の節句
(3)学芸会
(4)展覧会
(5)輪読会
(6)母の日マークの頒布
(7)母への奉仕

2 国体を中心として行ふ事例
(1)講演会
(2)輪読会
(3)表彰
(4)母を讃ふる夕(日)
(5)ポスター

3 講演輪読資料の提供
    前掲同著、92頁、引用に際して漢字を現在通用のものに改める


しかし、ここでも「カーネーション」は無い。確かに、先の説明文にもあったが、時期的に「三月六日」を充てている以上、「桃の節句」の方がより認識され、そうなると、既に花としては「桃」が占め、「カーネーション」は入りようがない。また、当時も今も、何かしらの啓発を行う場合には、「マーク」などが多用された様子が分かる。ついでに、「輪読会」だが、母性を強めるための書籍があったようで、それを皆で読んだという話となっている。「3」に資料の提供とあるが、そこに出ていたのは、同会の機関誌『家庭』『女性往来』などで、「母の日特集」を組んだらしく、それを読んで欲しいとなっている。かなり頑張ったようだが、どうも余り定着しなかったらしい。

そして、同会が設立された翌年、「母の日」に関して衝撃的内容を持つ書籍が刊行されている。

  五月十日は「母の日」 カーネーションを捧げる
 五月の第二日曜、十日は「母の日」です。子供たちが栄誉に輝く日も、また失意と零落に泣き悲しむ日も、同じ大きな愛の心を以て抱きしめて共に喜び共に悲んでくれるのは母の心です。此の限りない慈愛に満てる母の心に感謝して十日は世界の子供たちが紅いカーネーションを母に贈り、母のない子は白いカーネーションを持つて世の母を慰め共に語り楽しむ「母の日」です。もとキリスト教の人々によつて始められたものですが、千九百十四年にアメリカでは議会で五月の第二日曜を母の日と定め、官公衙の建物に国旗を掲げて此の日母に敬意を表するやうになり、以来世界的の運動となりました。日本では明治四十五以来の事ですが、今日では世界中が認めた「母の日」であつて、世界中の子供が母の慈愛に敬意を表し感謝する日なのです。 (昭和十一年五月十日)
    燕昇司和平『時代は明朗』(燕昇司出版部・昭和11年)16~17頁、引用に際して漢字を現在通用のものに改める


・・・あれ?どうも、こちらが現在まで残った模様。いや、前年に「大日本連合婦人会」が成立して、「母の日」を訴えたにも拘わらず、こちらは余裕の内容。アメリカでは議会で制定し、日本でも明治45年から5月第二週が「母の日」で、カーネーションを捧げます、という立場を堅持している。しかも、この言葉を信じれば、明治45年とは1912年となるから、先に挙げたWikipediaの記述である1913年の青山学院の事績よりも1年早く、何かをやっていたらしい。詳細は全く分からないが、非常に興味深い。

なお、この「母の日」を先に挙げた連合会や文部省が、別の日にしたくなったというのは凄く分かる。キリスト教やアメリカ由来だと認識された可能性があるからだ。だとすれば、皇后陛下へ重きを置きつつ、「桃の節句」に因むという話にしたかったというのも理解は出来る。ただ、こういう国策的な話は、戦後徹底的に解体されただろうし、世界が「5月第2週の日曜」だとしているのだから、そちらに準えるというのもその通りである。

結果、今日、「母の日」と相成った。

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