(寛永19年)師、七歳、喜んで仏事を揚ぐ。世帯を楽わず。父母、之を奇として共に出家を聴す。乃ち照山和尚〈諱は善鏡〉を本州龍興寺〈五雲山〉に投じて、童行と為る。
(正保 2年)師、十歳、照山寂す。一線和尚〈諱は道播〉、龍興の席を補す。師、乃ち遵う。線、為に祝髪して、法諱を起こす。
(慶安 2年)師、十四歳、線老に従って稟戒す。
(万治 9年)師、三十四歳。〈中略〉是に於いて、再び腰包して祖塔を巡礼し、隠元・木庵二禅師を黄檗に見ゆ。
(延宝 6年)師、四十三歳。秋に一禅客の加州より来たりて、大乗月祖の提唱を挙すを聴きて、心窃かに之を慕う。〈中略〉是に於いて一夕、毘盧壇を開き、歴代相承の大戒を付し、及び、戒脈・戒本を授け、相次ぎ入室す。祖、示して云く、古より法門の人を得ること難きか。我、今、汝を得るは、世尊の迦葉を得、青原の石頭を得るが如し。我が宗、汝に至りて大興す。乃ち嗣書・法衣并びに付偈を授けて云く、「血脈貫通す七仏の先、青原門下希遷を得、世尊・迦葉相識せず。古無く今無き一大縁」と。
『卍山広録』巻49「鷹峰和尚年譜」、『曹全』「語録二」巻参照、訓読は拙僧
そして、この後は永平寺に瑞世拝登を行い、住持として活躍されていくことになる。それで、上記内容から理解出来ることは、卍山禅師の活動はまず、童行となるところから始まっている。これは、子供の頃から篤信であったために両親が許したことになっており、地元(備後国河北州、現在の広島県庄原市)の五雲山龍興寺にて、同時3世の照山和尚に就いた。その後、照山和尚の遷化に伴い、一線道播禅師が4世となって、卍山禅師は月舟宗胡禅師に会うまでの間、基本はずっと一線和尚に就いていた。
なお、卍山禅師の出身は広島なのに、その後は関東地方での活動が目立つ理由としては、一線和尚が龍興寺の後は基本、関東の諸寺院で住職を務めたためである。
そして、一線和尚は卍山禅師10歳の時に、剃髪をし、法諱を起こすとあるから、この時に「道白」の名を戴いたのだろう。確かに、師の一字もいただいていることからも、そう考えるべきであろう。
ただし、正式な僧侶になったのは14歳の時で、「稟戒す」とあるから、いわゆる「得度」をこの時にされたということなのだろう。つまり、先に安名はしてもらっていて、その後に戒を受けたことになる。
また、34歳の頃には、各地から住職の誘いを受けたようだが、卍山禅師は固辞して、黄檗宗に参じている。ただし、これ以降、江湖に卍山禅師の名は伝わったという。
転機となったのは43歳の秋で、この時初めて月舟禅師の教えを聞き、同年中に月舟禅師に参じ、伝戒・伝法を受けたのであった。色々と調べてみると、一線和尚からも実質的には後継者の扱いは受けていたようだし、当時の様子としていわゆる「易師」は良くある話であった。もしかすると、卍山禅師もそうであった可能性はあるが、後の宗統復古運動の様子を見ると、流石にそれは無かったというべきなのだろうか。「年譜」でも一線和尚からの伝法などは認めていない。
なお、上記内容から伺えることは、とにかく長期にわたって教育が授けられ、或いは自ら受けるなどして、一人の僧侶、いや人天の大導師としての自覚を持つに至る過程が見えるのである。
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