つらつら日暮らし

江戸時代の浄土真宗に於ける妻帯論について(3)

とりあえず、【(2)】をご参照いただいた上で、『真宗百通切紙』巻2「卅九妻帯の事」の前回に続く以下の記事をご覧いただければと思う。

 問ふ、聖人妻帯の意、如何、
 答ふ、末代下根の凡俗に同じて本願他力を勧め給へり、譬ば人の井中に堕んに衣服を脱ぎ、井に入ん、其の間には、死すべき故に、衣服脱せずして井中に入り、是を救うべし、其の如く、濁世末代の世俗を救んには僧形の侭、俗中に入て本願念仏を勧て、俗人念仏往生疑無しと信を取らせ玉へり、
 問ふ、末弟の僧、妻子を帯びて念仏往生疑い無し耶、
 答ふ、本願不思議何ぞ疑ん耶、其の上、源空上人云く、設ひ僧形と為ると雖も、妻子を帯るは、即ち在家の僧なり、更に出家の思いを成すべからず、恒に身心に愧ぢ、深行を修すべし、但だ邪婬を禁ずべきなり、一人猶を以て比丘行に非ず、況や邪婬を行ふをや、空聖人、妻子を許す言下に禁有り、当流の僧、空、制を守るべきなり〈云云〉、
    『真宗百通切紙』巻2、カナをかなにし段落を付すなど見易く改める


ということで、上記の部分がこの一章の末尾となる。簡単に訳しながら見ていきたいと思う。

まず質問は2問ある。1問目は、親鸞聖人が結婚した意図とは何か?と尋ねている。答えとしては、末法の世に生きる、仏道修行に適さない凡俗と同じ様子となって、阿弥陀仏の本願他力を示すためだという。その譬えとして、井戸の中に堕ちた人を救う話をしているが、これが分かりにくい。

ただ、井戸の中から人を救うためには、服を着ていなければならないとし、親鸞聖人の結婚は、そのようなものだという話らしい。つまり、末法の濁世に於いて世俗を救うには、僧形のままで俗の中に入るべきであるが、その際に、説く内容が本願念仏である、というのがポイントなのだろう。

そうであれば、俗人が念仏で往生できるという確信を得させやすいということになっている。よって、方便としての結婚だということになるわけである。

そこで、質問の2問目は、末代の弟子達の僧侶も、結婚しても念仏往生は疑いないのだろうか、と聞いている。

答えは、阿弥陀仏の不可思議なる本願を、どうして疑うことが出来ようか、としている。そして、典拠として法然上人の言葉を引くのだが、これは、『布薩式』に出て来る言葉なので、おそらくは後代の教えであろう。ただし、ここでは、その言葉から、「在家の僧」という言葉を引き、邪婬(不倫)をすべきではない、という教えになっている。

つまり、結婚は許すが、そのあり方には制約があるという話になっているわけである。分かりやすくいえば、戒律を、「不貪婬戒」では無くて「不邪婬戒」として護持していくということなのだろう。また、この記事に出て来た「在家の僧」という表現については、機会を見て掘り下げていきたい。

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