つらつら日暮らし

江戸時代の浄土真宗に於ける妻帯論について(2)

とりあえず、【(1)】をご参照いただいた上で、『真宗百通切紙』巻2「卅九妻帯の事」の前回に続く以下の記事をご覧いただければと思う。

 問ふ、楞厳経に云く、縦ひ多智禅定現前すること有ども、婬を断ぜざるが如きは必ず魔道に落つ、といへり、如何、
 答ふ、是れ人に随ふ説なり、
 問ふ、大集経に八重無価を説に、九十五種の異道に比し第一と為と云ふ、見よ、持戒より浅劣なり、如何、
 答ふ、上来八重の無価は、制教に約して福田の勝劣を分別す、若し化教に約せば、設ひ無戒なりと雖も、所行の法に依て、世の福田と為るなり、世に持戒の人無きこと面面知るべし、
 問ふ、寺院に妻子あるは見苦敷なり、如何、
 答ふ、仏、妻子を制するこヽろは広く衆生を化せん為めなり、末法に妻子を許すは邪婬を離れしめんが為めなり、羅什妻子有りと雖も賤劣と云はず、太子に妻子有りと雖も賤劣と云はず、若し妻子無を貴と為せん、孤独鰥寡の人を貴と為んや、妻子無にも依らず、妻子有るにも依らず、法徳を尊と為すなり、
 問ふ、羅什・親鸞等に妻子有るは、衆生を化す為の方便なり、故に華厳経に云く、十行の菩薩、浄戒を持つ時、無量の魔女有て、菩薩を悩乱す、一念の欲心を生ぜざる、心浄きこと、仏の如し、其の方便をもって、衆生を教化することを除く、寧ろ身命を捨とも、悪を人に加へざる婦なるべし、しかるに羅什は弟子には制す、親鸞は弟子に許す、こヽろ如何、
 答ふ、羅什弟子に制するは、未だ無戒の時機に至ざるが故なり、聖人は無戒の時機を考て弟子に妻子を許すなり、
    『真宗百通切紙』巻2、カナをかなにし段落を付すなど見易く改める


上記引用文の後半から、徐々に宗派としての見解を説くようになっている印象ではある。まず、上記引用文では、『楞厳経』と『大集経』の引用文が見られる(ただし、浄土宗の『布薩式』に関連する文章との指摘もある)。

まず、『(首)楞厳経』だが、この一文は巻6に出ていて、結構有名な一節ではある(後代に引用されることが多い)。禅定・智慧の現前が出来ても、婬欲を断じない限りは、魔道に落ちるという。その点について、本書では、「人に随ふ説」としているので、時と場合に依ってはそうならないといいたいのだろう。

また、『大集経』については、『大方等大集経』巻55「月蔵分第十二分布閻浮提品第十七」からの引用であるけれども、かなり略されて引用されている。ただし、いいたいことは、「若しくは汚戒無く剃除鬚髪し身に袈裟を著くる名字比丘を無上宝と為し、余の九十五種の異道に比して最尊第一なり」であろう。おそらくだが、「汚戒無く」を「無戒」だと解釈しているのだろうと思われる。

その次は、寺院に妻子があるのを「見苦しい」とする見解である(個人的心情か)。これについては、妻子がいることによって、むしろ広く衆生を導くことが出来る、としている。何故ならば、邪婬(今風にいえば、不倫)を防ぐためだという。その根拠として、鳩摩羅什が色々とあって、妻子を得たが、この人を蔑むべきでは無いとしている。

それから、鳩摩羅什や親鸞聖人に妻子があるのは、衆生を導く方便だという。そして、その様子を『華厳経』を引いて述べているように見えるが、実際には(浄土宗系『布薩式』からの引用だが、その原典は)法蔵『梵網経菩薩戒本疏』巻3の「故華厳中十行菩薩持浄戒時、有無量魔女悩乱菩薩、不生一念欲、心浄如仏、除其方便教化衆生、寧捨身命不加悪於人」を引いているわけである。

そして、この一節から、羅什はそれでも弟子が妻子を持つことを制し、親鸞聖人は許すという違いがあった理由が問われているが、本書では、「無戒の時機」を問題にし、前者はまだそうはならず、後者はその時機だったからだという。そうなると、結局は末法無戒が根拠になっていることが分かる。

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