法華と名号と一体なり。法華は色法、名号は心法なり。色心不二なれば、法華すなはち名号なり。故に観経には、『若し念仏せん者は、是れ人中の芬陀利華』ととく。芬陀利華とは蓮花なり。さて法華をば薩達摩芬陀利経といへり、と。
『一遍上人語録』巻下-81
一遍上人もまた、いわゆる宗派仏教にはとらわれの無い人でしたので、『法華経』による往生の助証と、南無阿弥陀仏という名号とが並列的に用いられることについて、肯定していた人でございました。中でも今回採り上げた説法では、『観無量寿経』にて、念仏する人は人間世界に生きる蓮華(悟りを表す華)であるとしていることを受けて、南無阿弥陀仏が、まさに『妙法蓮華経』という名前であるとしているわけです。
それは、薩達摩芬陀利経という名称に於いて、薩を妙と訳し、達摩を法と訳し、後は蓮華経とするわけですが、これに「南無阿弥陀仏」の六字が、一々対応していくとされています。そこで、その対応の仕方は、色心不二であるとされ、色である法華と、心である名号とが、おそらく単純な並列というより、相補的に対応していくのです。
相補的な対応というのは、両方どちらが観測されても良い状況の中で、観測する主体に依存する形で、どちらかだけが観測されることです。一遍上人の世界観に於いては、法華と名号とが対立する関係ではなくて、対応状況にあるわけですが、それを観測しようとすると、どちらかだけが見られるわけです。
どうしても、現在の教団・宗派的な見方から離れられない人は、法華とは天台宗・日蓮宗に関連すると捉えていくでしょうし、念仏というのは浄土教系であると、その思想的な出自にこだわりを見せますが、実際には、それをどのように組み合わせていくかは、その人本人の選択に任されています。ですから、念仏は浄土教、法華は法華宗と身勝手に分類するのではなくて、使える発想・実践なら何でも使う、という意味での「貪欲さ」はあっても良いと思いますね。
そして、本来的に同じ大乗仏教の中で、どれが良くて、どれが悪いかなんて、考えるだけ無駄なことだとも言えますね。
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