つらつら日暮らし

12月22日 冬至の説法

今日12月22日は冬至である。そこで、禅門では「夏至」の説法は見たことがないが(あるのかな?)、「冬至」の説法は数多く残されていることから、拙ブログでも毎年、この日にはその説法を紹介するなどしているのである。そこで、今日は以下の一節を学んでいきたい。

 冬至の上堂。
 僧問う、群陰消尽して一陽復た生ず。衲僧家、此に到って、如何が転身せん。
 師云く、老鼠、牛角に入る。
 僧云く、和尚、忒殺だ方便たり。
 師云く、仁者とは、之れを見て之れを謂う仁なり。
    『虚堂和尚語録』巻1


これは、中国臨済宗の虚堂智愚禅師(1185~1269)による説法である。冬至に行った上堂(禅林の正式な説法)に於いて、大衆の中から僧が出て来て、虚堂禅師に質問している。「あらゆる陰気が消え尽くして、陽気が生じている。禅僧はここに到って、どのように身を転ずれば良いのでしょうか?」と聞いたのだが、虚堂禅師は「老いた鼠が、牛角に入っている」・・・焼き肉屋さんではあるまい。

要するに、あり得ない話なのだが、そのような不思議な働きをもって虚堂禅師は示したのである。すると、質問してきた僧は、「和尚、その言葉は、はなはだ方便の教えですな」と評した。

そして、虚堂禅師は、仏道を得る仁者とは、この教えを、そのようにいう人のことである、とした。だいたいの訳ではあるが、冬至に於ける「転身」についてはもう少し考えてみたい。

禅僧達の言葉に「沙門転身」という一句が見られる。特に、曹山本寂禅師が用いたことで知られるが、それはやはり、通常の思考では考えられない、不可思議な働きを示すものである。そうなると、我々自身の常識を揺るがす働きこそが、転身である。そして、何故それが、この冬至に於いて問われるのか?といえば、この冬至とは端的に「陰極まって、陽生ず」る時だからに他ならない。

世間全体が、陰から陽へと転ずる時、一切の衆生もまた、迷から悟へと転身していくべきなのである。ただし、果たしてそれが、不可思議な働きでもって表現して、十分か?ということである。ただ、不可思議であることを示すだけだとすれば、これはやはり、方便となってしまう。

質問した僧は、それに気付いたのだろうが、虚堂禅師はそこに仁者を認めたことになるといえようか。ということで、今日は冬至であり、或る意味で冬が極まったわけである。明日からは今度、夏至に向かって昼が長くなっていく。普段の気温などに、春を感じることは難しい時期だが、しかし、それこそ不可思議に悟りを味わう時期であるともいえる。

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