つらつら日暮らし

「上持戒の上中下」について

以前、「持戒の上中下」について考えたのだが、その時に、取り残した問題があったので、今日はそれを採り上げてみたい。元になっている一節は以下の通りである。

 若し護らず、放捨すれば、是れを破戒と名づく。此の戒を破れば、三悪道中に堕つ。
 若し下持戒ならば人中に生じ、中持戒ならば六欲天中に生じ、上持戒又たは四禅・四空定を行ずれば、色無色界の清浄天中に生ず。
 上持戒に三種有り、下清浄持戒ならば阿羅漢を得、中清浄持戒ならば辟支仏を得、上清浄持戒ならば仏道を得。
    『大智度論』巻13「初品中尸羅波羅蜜義第二十一」


それで、冒頭のリンク先の記事では、この持戒のあり方にも様々な状態があることを紹介したのだが、更なる課題としては、上記の一節に於ける「上持戒の上中下」である。そもそも、持戒のあり方に区別があるというのは、この場合、十善戒で守られる条数を意味しているが、その内の「上持戒」にも区別があるというのは、なかなか理解出来ないためである。

そこで、もし漢訳仏典中に何か理解を促す一節があれば、それを見ておきたいと思ったのだが、どうやら『大智度論』では先の一節に続いて、幾つかの文章が見えるようなので、それを確認しておきたい。

 著せず、猗らず、破らず、欠かさず、聖の讃愛する所なれば、是の如きを名づけて上清浄持戒と為す。
 若し衆生を慈愍するが故に、衆生を度さんと為す故に、亦た戒の実相を知るが故に、心、猗著せず。此の如きの持戒、将来の人をして仏道に至らしめ、是の如きを名づけて無上仏道を得るの戒と為す。
    『大智度論』巻13「初品中尸羅波羅蜜義第二十一」


この辺からすれば、「上持戒」の意味については、ただ戒を守るということ以上の意味があったことが理解出来よう。それはつまり、心が偏らず、戒を破らず、戒の功徳が欠けることがなく、しかも聖者が讃歎するようなところをもって、「上清浄持戒」と名付けるという。つまり、ここでいう「上清浄持戒」というのは、学人の心の問題が大きいことを意味する。

それから、本論が指摘する、「上持戒」の条件としては、衆生を慈愍するために、衆生を渡すために、戒の実相を知っているために、心には偏りや、執着が無いとしている。偏りや執着が無い人の持戒は、その戒を持っている人たちを仏道に至らせ、このようなことを、無上仏道を得るの戒と該当するという。

結局は、ただ形式的に守るだけでも、「上持戒」にはなるけれども、併せて心の問題が問われているのではないか?ということくらいは申し上げられそうである。そして、その心のあり方については、禅定に係る可能性が高いので、戒定慧という三学についても、戒学に止まらず、定学なども見ていく必要があり、更には、禅門でいう禅戒論なども関わってきそうな雰囲気はあるが、それはまた、詳しく今後に検討したい。

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