つらつら日暮らし

出家者に対する授戒の有無について(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・4)

4回目となる連載記事だが、義浄(635~713)による『南海寄帰伝』19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思っていた。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。前回は、式叉摩那(正学女)についての作法を学んだが、今回はその続きである。

 豈に既に出家の後に師主、十戒を授けず、其の毀破を恐れて大戒を成せざること有らんや。此れ則ち妄りに求寂の名を負い、虚しく出家の称を抱く。片利を懐くに似たるも、寧ろ大損を知らんや。
 経に云く、「未だ十戒を受けずと雖も、僧数に堕す」とは、乃ち是れ権りに一席を開く。豈に執して長時と作り得んや。
 又た神州の出家は皆な公度に由る。既に落髪を蒙って、遂に乃ち権りに一師に依る。師主、本と其の一遮を問わず、弟子、亦た何ぞ曾て其の十戒を請わん。未だ進具せざるに来たりて情に恣にして罪を造る。受具の日に至りて道場に入らしめ、律儀、曾て預め教えず、時に臨んで詎ぞ肯て調順せんや。
 住持の道、固に然らず。既に常住を銷す合からず、受施の負債、何ぞ疑わん。理、応に教に依て済脱を為すべし。
 凡そ公度を蒙る者は、皆な須く預め一師を請すべし。師、乃ち先づ難事を問う。若し清浄ならば、為に五戒を受け、後に落髪を観て、縵條衣を授けて十戒を受けしむ。
    『南海寄帰伝』巻3・2丁表~裏、原漢文、段落等は当方で付す


最初、この一節の意味が分からなかった。理由は、「出家」の言葉の意味について、どうも、当方で懐いていた観念に問題があったからだと分かった。つまり、当方では、出家については剃髪し、袈裟などを頂戴して身に着け、十戒(沙弥戒)を受けて出家になると思っていたのだが、ここでは冒頭で、「出家の後に」と示した上で、「十戒を授けず」とある。よって、出家とは剃髪などに係り、「十戒」とは別の話なのである。

そのため、ここでは、姿ばかり出家となった後に、十戒を授けられていない事態についての話であるとして、後を理解しなくてはならないといえよう。そこで、何故、十戒を授けないかといえば、それは戒を破ってしまうことを恐れてとしている。だが、もしそうであれば、沙弥十戒の後で更に複雑な比丘戒を受けるわけで、その持戒を成就することなど、出来るはずがないではないかと問題提起している。

つまり、求寂(沙弥のこと)という名前ばかりを背負い、出家という名称のみを得ても、わずかな(仏道を学ぶ際の)利益を得るのみで、大損となってしまうと批判しているのである。

そこで、義浄は経典を引いて、「未だ十戒を受けていなくても、僧衆に数える」(当方の意訳)としているが、これは大乗『大般涅槃経』巻2「寿命品第一之二」からの取意であろう。原文は「世尊、譬えば幼年にして初めて出家することを得れば、未だ受具せざると雖も即ち僧数に堕するが如し」というもので、義浄は「十戒」としているが、『涅槃経』では「受具」とあるので、具足戒(比丘戒)を指しており、少しく意味の相違が見られるのである。ただし、義浄はこの状態を、一時的なことであり、授戒できる状況が整った場合には改善されるべきとの指摘をしている。

それから、「神州」とあるが、これは中国のことである。義浄活動時の中国について、出家は皆「公度」であるという。つまり、公に許可されて出家したことを意味するが、その際には剃髪すれば、必ず師匠に就くという。ところが、師匠の方では、わずかの一遮(出家する資格を問うこと)すら行わず、弟子の側でも十戒を願わないので、具足戒を得ない間、ただ好き勝手に行動して罪を得るという。しかも、そのような状態で具足戒を得るために受戒道場(戒壇)に上っても、律儀を教えられていないから、その時の受戒で得た戒儀に従うことが出来ないともしているのである。

義浄は、仏法を得た住持というのは、そのようなことではないとしており、もし、そのような状態で常住(寺に備わっている食事や資産など)を費やすものなら、受施の負債(いわゆる信施の虚罪)を得るとしているので、道理に従って度脱すべきだとも忠告している。

さて、この一節の結論としては、もし公度を得るのであれば、弟子は必ず師匠に就くべきだとし、その際、師匠となる者は、弟子となる者が受戒できる資格があるかどうかを問うべきだとし、もし問題が無ければ、まずは在家五戒を授け仏教徒とし、その上で剃髪すれば、沙弥にとっての法服を授けて、更に十戒を授けるべきだというのである。

要するに、この時代、中国では受戒と出家とが相即していなかった問題があったということなのだろう。意外と、日本と共通点があったものだと驚いた次第である。こういうことは、やはりしっかりと各時代の文献を読まねば分からないところである。

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