つらつら日暮らし

クリスマス雑々考(令和3年度版)

今日はクリスマスである。それで、クリスマスについて、もしかすると誤解している人がいるかもしれないので、簡単にその誤解を解いておきたい。

(誤)12月25日のクリスマスは、イエス=キリストの誕生日である。
(正)12月25日のクリスマスは、イエス=キリストの誕生を祝う日である。


「誕生日」と「誕生を祝う日」は一緒だろ?と思う方もおられるかもしれないが、そうではない。端的にいうと、イエスが生まれた日付は、実は知られていないのである。それこそ、実質的なイエスの言行録である4本の「共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)」を見たところで、イエスの誕生日については記述がない(この辺は【クリスマス雑考(令和2年度版)】で検討済み)。

それどころか、12月25日がクリスマス(英語では「キリストのミサ」の日の位置付けで、ラテン語では「主の降誕」を意味する「Nativitas Domini」となる)になった経緯については、4世紀の古代教会で、既に降誕を祝う祭日とされており、理由としても、ローマで盛んに信じられたミトラ信仰(太陽神崇拝)では、ローマ暦で冬至に当たる12月25日を「太陽神の誕生日」としていたという。そのため、キリスト教では、キリストこそが真の太陽であるとの確信から、この日をクリスマスに充てたという(八木谷涼子氏『キリスト教の歳時記―知っておきたい教会の文化』(講談社学術文庫・2016年)「クリスマス(12月25日)」項、『岩波キリスト教辞典』「クリスマス」項を参照した)。

さて、今回、この記事を書くに及んで、幾つかの本を読んでみたのだが、その結果も含めて書いておきたい。まず、遠藤周作氏『イエスの生涯』(新潮文庫・昭和57年)を読んでみたが、研究熱心な遠藤氏らしい実証的な文章で、イエスの誕生の場面については何も書いていないのである。しかし、これは賢明であろう。

また、荒井献先生の『イエス・キリスト―三福音書による(上・下)』(講談社学術文庫・2001年)では、ヨハネを除く3本の「共観福音書」の中から、特にイエスの生誕説話を導入しているマタイ・ルカの2福音書を分析しながら、それぞれの著者の主張を丹念に探っているが、イエスの誕生日そのものの是非を扱っているわけではない。しかし、それが逆に、イエスの誕生日自体の記述不在を意味しているので、大変に参考になった。

そうなると、イエスの誕生日が記載されていない理由を、当方、門外漢の分際であることを知りつつ書いておくと、結局は或る程度の年令になるまで、この人が無名だったからに他ならないといえる。そして、基本的な福音書でも記述がないというのは、本人も自分の出自などについて、多くのことを語らなかったことを意味している。

ただし、イエスはわずか30歳を過ぎたくらいで磔刑に処されているので、イエスの母であるマリア(一説に、父ヨセフはイエスが10代の頃に亡くなったともいうが、それは福音書の解釈次第とのこと)はイエス処刑後も存命で、初期キリスト教団に加わったらしい(『岩波キリスト教辞典』参照)。そして、ヨセフとマリアの間に生まれた子供(一説に、7人の子供がいて、イエスが長男とのこと)で、イエスの弟たちは、初期キリスト教団に於いてイエスの直弟子たちとも微妙な関係を保ちつつ活動していたらしく、もしかすると、彼らイエスの身内から、イエスの誕生の様子が語られたとしてもおかしくないのかもしれないが、これも記録上は不明とのこと。

以上のように、我々はまず、冒頭で述べたように正しい理解をすべきであって、その上で、この日に関わる様々な商業的なイベントなどもまた、各々の自由な気持ちで楽しめば良いのだと思う。当方も、こういう機会をもって、イエスの誕生の様子を調べることで、知見を新たにする機会を得た。個人的には、これこそがイエス誕生へのお祝いである。

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