つらつら日暮らし

仏典に於ける蝉に関するお話し

当方で、蝉が初鳴きした。今季初である。よって、その蝉に因んで、この記事を書いておきたい。

蝉蛻 上は時に延・反なり、下音は税・説なり、文は蝉・虵の退皮するところなり、並びに虫に従い、単兊の声に従うなり。
    『一切経音義』巻76


この意味は、「セミの抜け殻」のことである。実は、この文字が仏典に登場しており、その音と意義を示したのが、上記の一節なのである。なお、「蝉」はセミで、「蛻」が抜け殻のことである。そうなると、「蛇(虵)の抜け殻」などにも使えそうだが、実際に「蛇蛻」という語句も、仏典に出ている。

ところで、この「セミの抜け殻」であるが、一体、どういう文脈で使われるのだろうか?

同願の有る者は、但だ導師を瞻て、脱然なること蝉蛻のごとく、五濁の泥を出づ。
    『楽邦文類』巻2「李伯時画弥陀讃 寂音禅師恵洪」


これは、穢土たるこの世界を脱して、浄土たる極楽に至る様子を、「セミの抜け殻」のようだと喩えている。中身は往生している様子が、これに該当するということなのだろう。なお、こうなると、「肉体と魂」のような様子なのか?と思えてしまうが、これはよく分からない。

蛇退皮し、蝉蛻殼す。一点の霊光、何ぞ縛脱せん。
    『宏智禅師広録』巻7「下火」


「下火」とある通り、これは葬儀(火葬)のときの引導法語に該当する。なお、中国禅の宏智正覚禅師がここで引導を渡したのは、「祖随上座」という僧侶に対してであった。内容からは、上座が本具しているはずの「一点の霊光」は、何かに縛されたり、脱したりすることは無いことを示しつつ、上座自身が自由自在であることを示したものだろうか。それに、「蝉蛻殻」が使われている。

なお、他にも調べてみると、「蝉蛻」を用いて禅問答を行った事例があるようなので、見ておきたい。

 師、遊山して蝉蛻殼を見る。
 侍者、問うて曰わく、殼在り、遮裏の蝉子、什麼の処に向かって去るや。
 師、殼を拈じて耳畔に就け、三五下に揺らし、蝉の声の響きを作す。
 其の僧、是に於いて開悟す。
    『景徳伝灯録』巻15「投子感温禅師」章


この感温禅師とは、かの投子大同禅師(819~914)の法嗣であるとされ、9世紀の人であると思われる。そこで、以上の内容だが、簡単に読み解いてみたい。まず、感温禅師が、侍者などとともに遊山していたようだが、セミの抜け殻を見つけた。それを見て、侍者が感温禅師に、「ここに殻がありますが、その中のセミは、どこに行ったのでしょうか」と尋ねた。

すると、感温禅師は殻をつまみ上げて、侍者の耳に近づけ数回上下させて、セミの音の響きを聞かせた。侍者はそれで開悟したという。

問題は、殻の中身がどこに行ったか?ではなくて、それが仏法の働きが残っていることを示すことであった。よって、中身はどこに行ったのか?という問いは、空即有の妙諦を示す事象として把握されなくてはならない。その妙諦こそが、蝉の声なのである。どちらにしても、短い夏を生きる蝉の声、岩にしみたりもするが、これこそ仏法の声だとして頂戴しておきたい。

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