つらつら日暮らし

曹洞宗の回向文に於ける『大悲呪』の呼び方について

ちょっと読んでいたら、意外な記載を見付けたので、記事にしておきたい。まず、タイトルにもある『大悲呪』とは、『大正蔵』では巻20に収録されている『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』に入っている陀羅尼である。そこで、曹洞宗で同陀羅尼は、道元禅師の時代から用いられていた。

 米を択び菜を択ぶ等の時、行者諷経して竈公に回向せよ。
 いわゆる諷経とは、安楽行品・金剛般若・普門品・楞厳咒・大悲咒・金光明空品・永嘉証道歌・大潙警策・三祖信心銘等なり。随宜に諷経して竈公に回向するなり。
 回向に云く、上来某経を諷誦す。又云く、上来諷誦する功徳は、当山竈公真宰に回向す。法を護し人を安んずるものなり。
 十方三世一切諸仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。
 堪能の行者を請して、諷経頭と作せ。
    『永平寺知事清規』「典座」項


以上の通りだが、かまどの神さま(竈公)への諷経として、『大悲呪』と入っていることが理解出来よう。ところで、法要で読誦するとして、経文のタイトルを維那などが「挙経」するのだが、その際の方法は現状、以下のように定められている。

十三、大悲呪 「大悲心陀羅尼」と挙す。「千手千眼観自在云々」又は、「南無喝囉怛那」と挙さない。
    『曹洞宗行持軌範』「挙経法」項


それで、拙僧も上記の通り習ってきたし、自分でもそう挙経する。なお、現状は基本、回向文でも同陀羅尼は「大悲心陀羅尼」と読むのだが、或る文献を読んでいたら興味深い記述があったので、見ておきたいのである。

回向に大円満無礙神呪と誦て悲の字を除く、古例なり。千手経に見ゆ、私除にあらず。
    面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻2「月分行法次第」


なるほど、以上の通り近世洞門の学僧・面山禅師は、『大悲心陀羅尼』を回向で読み込む時、「大悲円満」というところ、「大円満」で良いとされたのである。「古例」だと言うが、例えば以下の一節などはどうか?

上来諷誦大悲円満無碍神咒……
    『瑩山清規』「月中行事・粥諷経」項


・・・いや、「大悲円満」となっているな。ただし、面山禅師は江戸時代の『瑩山清規』の伝播などについて、写本の誤記などに不満を持っていたので、この辺の影響は余り考えるべきではないと思う。それで、もう少し調べてみたら、同じ『瑩山清規』に「大円満無碍神咒」ともあることが分かった。

そこで、以下は拙僧なりの考察である。『瑩山清規』で「大円満」と読むのは、「祝聖諷経」であった。しかも、面山禅師の指摘も「祝聖諷経」での回向法であった。よって、もしかすると「祝聖諷経」だと「大円満」なのでは?という仮説を思い付いた。なお、面山禅師がいうように、本来の経題は「大円満」なので、その読み方に問題は無い。

『曹洞宗全書』「清規」巻に収録される各清規を確認した結果、「竈公諷経」でも「大円満」と読んでいることが判明し、拙僧の仮説は程なくして崩壊(T_T)

とりあえず、「大悲円満」「大円満」両方があったということ以外は良く分からなかった。しかも、今は「大悲心陀羅尼」とか読まないので、今回の記事は特に意味は無いという結論に至った。

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