つらつら日暮らし

「名字比丘」について

個人的に、浄土真宗・存覚上人の『六要鈔』を参照していたら、「末法の中に名字比丘は世宝たるが故に痛むべきにあらずとなり」という一節があった。この一節は、末法無戒の理由や意義について説かれた内容なのだが、そこに、「名字比丘」という表現があった。そこで、とりあえず以下の一節などを見てみた。

了知すべし、清浄士よ、是れより以後、我は法中に於いて、復た鬚髪を剃除し、身に袈裟を著けると雖も、禁戒を毀破し、不如法を行ずるは仮名比丘なり。是の如く破戒の名字比丘、若し檀越有りて捨施し供養して護持養育すれば、我れ是の人、猶お、無量阿僧祇大福徳聚と説く。何を以ての故に、猶お能く多くの衆生を饒益するが故に。
    『大方等大集経』巻55「月蔵分第十二分布閻浮提品第十七」


まぁ、こういう感じの時には、ほぼ必ずと言って良いくらい参照されるのが『大方等大集経』である。この経典は、比丘の無戒や破戒を肯定的に説くためである。そうなると、伝統的な律に対する時、規定的には無戒となる僧侶が多い日本では、どうしてもこういう経典が参照されつつ、自己肯定されるわけである。

当方は、この辺、全く専門ではないので、何ともいえないが、この「月蔵分」という箇所は、『月蔵経』とも呼ばれるように、一種異様な内容であって、キリスト教文献の黙示的内容ともいえる。或る種の、未来予言的内容でもあり、終末的内容でもあるからである。ただ、そういう中でも、ただ比丘達が堕落してけしからん、という話ではなくて、堕落した比丘でも、その都度、供養の対象になると説いているところに特徴がある。

その意味では、終末的といっても、必ず一種の希望を残しながらの話となっているわけである。上記のような内容を踏まえて、最初の文章を見てみると、良く分かるのではないかと思う。

でも、厳しく扱われている文献もある。

彼の人、唯だ比丘の形服のみ有りて、名字比丘なり。身壊れ命終すれば、悪道に堕ち、地獄中に生ず。
    『正法念処経』巻50「観天品之二十九」


・・・恐いことをいっている。こちらは、「月蔵分」とは正反対だといって良い。僧侶に対して厳しく考えたい人向けの文脈だといえるかもしれない。

  沙弥亦た名比丘
善見律に云わく、如し、檀越の来たる有りて、比丘を請するに、沙弥、未だ具戒せずと雖も、亦た比丘の数に入る。是れを名字比丘と名づく。◯涅槃経に云わく、譬えば幼年の如し、初めて出家を得て、未だ受具せずと雖も、即ち僧数に堕す。◯四分律に云わく、大比丘に従いて、下次第に沙弥に房舎・臥具を与う。若しくは利養、随次に之を与う。
    『釈氏要覧』巻上「剃髪」項


ここで気になるのは、やはり最初の部分であろう。檀越が来て、比丘を供養しようとしたが、その際、沙弥のままであっても、数合わせのようにして一緒にお呼ばれすると、この者を「名字比丘」とするという。確かに、正式な比丘ではないが、準じた扱いを受ける場合がある時、「名字比丘」などと呼ばれることが分かる。

よって、「名字比丘」について、もちろん、本来の比丘が具えるべき条件が十分ではないから、色々と問題があるわけで、その境界線にいる比丘をどうするかで、議論があったわけである。

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