つらつら日暮らし

安名と戒名について

ちょっとした備忘録的記事である。拙僧つらつら鑑みるに、「安名」という言葉について、正確な理解をしておきたいと思ったので、その辺を記事にしておきたい。そもそも、現状の宗門の行持体系で、「安名」という語句については、以下の場合に於いて使われている。

・出家得度式

項目としては「準備品」の中と、作法の中に「安名」という字句が見える。なお、一部では「授戒会」で用いられる言葉だと指摘する人がいるが、現在の『行持軌範』「授戒会」項には見えない。それで、「出家得度式」では、以下の2つの意味となっている。

①準備品としての「安名」⇒授ける出家の名を紙に書いたもの
②作法名としての「安名」⇒直綴が授けられ、剃髪が終わった発心の人は焼香三拝し、長跪合掌する。この時、本師(受業師)は出家の名を書いた安名を読み上げた後に、これを発心の人に対して授ける。


以上である。一瞬、「安名授与」という作法名になっているかと思ったのだが、項目名は「安名」のみであるから、「安名」には2つの意味があると推定した。

それで、拙僧つらつら鑑みるに、禅籍などに限定されること無く、「安名」とは「名を安んずる」ことであり、いわば「名づける」ことを意味している。例えば、以下のような文脈はどうか。

 大師、堂に入りて見るに、即ち笑うて云く、「我が子、天然」と。
 師、下に跳びて、礼を作して云く、「師の安名を謝す」と。
 因みに天然と名づく。
    『聯灯会要』巻19「鄧州丹霞天然禅師」章


このようにあって、大師(馬祖道一)は、後に丹霞天然となる僧侶の奇行を見て笑い、「この天然が(笑)」と述べた。そこで、その丹霞天然となる僧侶は、「お師匠さまから名前をいただいたことに感謝します」と述べ、馬祖の述べた「天然」をこそ自らの名としたのである。中国でも、自然気ままに振る舞うことは「天然」と呼ばれるのだと知り、拙僧はかつて驚愕したことがある。

話を戻すが、ここで「安名」とあって、馬祖道一から名前を付けて貰ったことを指摘しているわけである。そうなると、現在の宗門の語句については、その妥当性について計る必要がある。まず、「準備品」については、妥当性云々ではなくて、もう、そういう風に呼んでしまうことにしたのだろう。いつ頃から始まった名称なのか?江戸時代の得度関係の文献にあるようだが、その辺は詳しく別の記事にしておきたい。道元禅師はそういう風に使われていないのだが、江戸時代には敢えて新たな名称の採用したものか。

それで、②作法名と禅籍などでの使用例とは、同じだといえるだろうか。ここで確認しておきたいのは、実質的に出家の名を師匠が読み上げ、授けていることは事実だということである。よって、禅籍などの使用例とは重なる。しかし、相違点もあって、それはやはり①の意味が残っていることと、その①の紙を授けるという作法がともに入っていることである。ちょっと問題を整理すると、②の作法名としては、以下の意味が入ることになる。

②1⇒出家の名前が書かれた紙
②2⇒出家の名前を読み上げる
②3⇒出家の名前が書かれた紙を授ける


ようやく問題が整理できた。それで、もう一つの問題を解決しておきたい。それは、一部の場合、この「安名」を授戒会で用いることがあるということである。その場合、どういう意味かというと、次の通りとされる(『行持軌範』に見えないので、聞いた限り)

・授戒会において戒弟に授けられた仏弟子としての名前

以上であるという。意味合いというか、明治時代の宗派内の議論を見ていくと、「戒名」に該当するような気がしないでもないが、それとの関係については、かなり微妙な位置付けとなっていると聞いた。また、この辺は何かの機会に論じることもあるだろう。この記事では「安名」の語句について、語法上の混乱があることを指摘したけれども、最大の混乱は本来の意味を超えて名詞的に使っている状況そのものかと思った次第である。

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