つらつら日暮らし

『解脱上人戒律興行願書』を読んでみる(1)

解脱上人とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて南都の戒律復興運動を展開した解脱房貞慶上人(1155~1213)のことである。そこで、貞慶上人の高弟・戒如上人が記録された『戒律興行願書』が残されているので、数回にわたってその本文を学んでみたい。

 如来の滅後、戒を以て師と為す。出家・在家、七衆の弟子、誰か仰がざらんや。
 十誦律に云く、又た諸比丘毘尼を廃学して、便ち修多羅・阿毘曇を読誦するを、世尊種種に呵責す。毘尼有るに由りて、仏法世に住す〈云云〉。
 此の如きの文、幾許なるかを知らず。然而、時を追うて漸衰するは、必然の理なり。我も暗く、人も暗し。学ばず、持さず。但だ八宗相い分かれての後、三学互いに異なるの中、御寺昔より、二宗を相伝す。東西の堂衆は、則ち其の律家なり。鑑真和尚を以て祖師と為し、曇無徳部を以て本教と為す。
    『日本大蔵経』「律部二」巻・491頁上段、原漢文


さて、この一節を読み解いてみたいのだが、如来の滅後、戒をもって師となすというのは、諸涅槃経系の経典に示されることで、例えば、『遺教経』などでも見られることだ。おそらく、その辺を受けている主張であろう。

その上で、貞慶上人が引用したのは、『十誦律』であった。同律の巻34「八法中臥具法第七」に見える一節を要約したものかと思ったが、直接に参照されたのは、南山道宣『曇無徳部四分律刪補随機羯磨』巻下「雑法住持篇第十」であったようだ。要するに、比丘が毘尼(律)への学びを廃し、修多羅(経典)と阿毘曇(論書)等ばかりを読んでいたのを、世尊は種々に叱りつけたという。理由としては、律があるからこそ、仏法が世に住するという主張を受けるためであった。

そして、貞慶上人は、このような文章は色々と存在しているけれども、時代に応じて仏法が衰えていくのは必然であるという。この辺は、いわゆる末法思想の影響といえよう。そのため、貞慶聖人自身も、よく戒律を学んでいないし、持戒してもいないと述懐している。ただし、奈良仏教・平安仏教と日本での宗派は八宗に分かれ、各宗派の教理体系の上で、三学(戒定慧)の位置付けが互いに違うけれども、御寺(東大寺)では、昔から二宗を相伝しているという。これは、律宗と華厳宗のことであろうか。

特に律宗については、鑑真和上を祖師とし、曇無徳部に依っているという。曇無徳部というのは、一般的には「法蔵部」とも呼ばれ、いわゆる『四分律』は同部の律蔵であるとされる。先ほども述べたように、南山道宣の著作に「曇無徳部四分律」云々と名前が付いたものが見られ、しかもそれを、貞慶上人自身が引用されているとすれば、部派と律蔵との関係について、基本的な理解がそこにあったということになるのだろう。

上記内容は、仏教に於ける戒律の重要度と、日本に於ける相伝を確認した程度だが、貞慶上人がどのように戒律の興行を目指していくのかは、次回以降の記事で見ていきたい。

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