この一言をあきらめざらん、たれか余仏の道取を参究せりと聴許せむ。
『正法眼蔵』「画餅」巻
この一節は、香厳智閑禅師はそれまで経論を学んだ秀才の僧侶だったのだが、潙山霊祐禅師の下で学んでいた時に父母未生以前の言葉を持ってくるようにいわれ、それが出来なかった時に発した言葉「画餅不充飢」を指したものである(詳細は「渓声山色」巻を学ばれると良い)。その言葉は、経論の学びをただ無駄なものだと、如何にも禅宗らしく理解されていたのだが、道元禅師はそういった理解は正しくないとし、真実の「画餅」理解を示すために本巻を著された。
よって、先の一節は、「この一言を明らかにしないのなら、誰が他の仏であっても、この言葉を参究していたと許すことがあろうか(いや、許さない)」という意味になる。
ところで、この一節に付された註記は、非常に短いものであった。
如文、画餅不充飢の詞をあきらめざらむは、余仏の道取をもゆるしがたしと也、
『正法眼蔵抄』「画餅」篇
この「如文」とは「文の如し」と読んで、実質的には余計な註釈をしないことを指す。よって、この註釈では「この一言」として省略されてしまった「画餅不充飢」の語句を補うのみに留めている。しかし、それを考えると、この「画餅不充飢」の言葉を余程正しく把握しなければ、道元禅師の御垂示を頂戴することも出来ないわけで、次回以降の勉強会ではこの「画餅」の把握にこそ、努める所存である。
ところで、昨日の講義でもう一つ問題になったのが、以下の一句である。
この道を参学する雲衲霞袂、この十方よりきたれる菩薩・声聞の名位をひとつにせず、かの十方よりきたれる神頭鬼面の皮肉、あつく、うすし。
「画餅」巻
特に、後半の「神頭鬼面」の理解について、かなりの質問があったのだが、ここは結構難しい。
文に分明也、十方よりあつまれる学者の事也、神頭鬼面の皮肉あつくうすしとは、面面其面はかはりたり、此中に有若亡なるものもあるべし、又力量ある物もあるべし、其心歟、
『正法眼蔵抄』「画餅」巻
こちらも、「文に分明也」と、余計な註釈が不要であると示されている。ただし、やはり把握はしづらいと思う。拙僧個人は、以前に学んだ通り、この『抄』の解釈を用いて昨日はお話ししており、集まってきた学人に様々な立場の者がいるが、その能力などが区々であることを示す、とした。
などなど、この勉強会ではお話し終了後の、濃密な質問時間が大事で、それを元に、こちらも理解を進めることもある。ありがたいことだと感謝している。