つらつら日暮らし

彼岸会の話(令和5年度・秋の彼岸会)

ところで、曹洞宗の彼岸会について調べてみると、意外と資料的には少ない。明治時代に入ってからは、以下の文脈などから知られる。

彼岸会の事は諸清規に見る処なし。故に本規も亦之を掲載せず。然れども朝廷已に春分秋分を以て皇霊祭を修し玉ふことなれば、僧侶は無論、旧慣に拠て二期の彼岸に臨時の法会を営み、開山世代及び檀越の亡霊を普同供養し、且つ毎日説教を修して可なり。
    「春秋二季彼岸会」、『洞上行持軌範』「年分行持」項


ただし、冒頭であるように、「諸清規」に見るところはないわけである。明治時代に入り、国が「皇霊祭」を行うようになってから、この時期に儀礼を行うことに対し、積極的になったと思われるわけである。そんな中、以前【『彼岸之弁』参究】で採り上げた『彼岸之弁』については、江戸時代に曹洞宗関係者によって学ばれた彼岸会に関する記述として貴重といえよう。

なお、昨日、【江戸時代の彼岸会の様子】で紹介した通り、江戸では庶民行事の1つとして、彼岸会の際のお参りがあった。よって、宗派の意向はともかくも、庶民には浸透していたわけである。

一方で、明治時代中期以降に入ると、以下のような彼岸会説教の記録が見られるようになる(成立順に並べる)。

・高田道見先生『彼岸の由来』国母社・明治28年
・高田道見先生「彼岸法話」、『通俗仏教便覧』仏教館・明治39年
・森田悟由禅師「彼岸会垂示」、『永平悟由禅師法話集』鴻盟社・明治43年
・新井石禅禅師「彼岸会禅話」、『曹洞宗法話大全』鴻盟社・大正3年
・大内青巒居士「彼岸」、『人生の快楽』文昌堂・大正5年
・日置黙仙禅師「彼岸三昧」、『現代生活と禅』隆文館図書・大正9年


ただし、『洞上行持軌範』には「彼岸会」の行持が見えるけれども、来馬琢道老師『禅門宝鑑』(鴻盟社・明治44年)を見てみると「年分行持」には「彼岸会」が入っていない。江戸時代以前の清規を研究されていた来馬老師は、やはり、清規に見えない彼岸会を記録されなかったということなのだろう。

一方で、先に挙げたように、高田先生を始め、複数の宗門碩徳が、彼岸会について採り上げていることから、明治時代には彼岸会であっても、仏教行事として採り上げる必要が出てきたのであろう。それはまさしく、皇霊祭を春分・秋分に行うことになり、祝日になったからに他ならない。その辺の事情について、以下の一節などはどうだろうか。

彼岸七日の間は、寺院に有りては説教及びそれぞれの法要を修行し、一般の信徒は専ら仏寺仏堂に参拝し、又は自家に於て先祖の祭りを修することになつて居る。皇室に於かせられても、恰も中日に当る春分秋分の日を以て、春秋季の皇霊祭を行はせられ、大祭日として当日は各官衙各学校までも一般に休むことになつて居る。昔は今日の如く春秋皇霊祭と云ふ名は無かつたけれども、春分には春季の御読経と云ふことがあつて、勅命を以て高僧を朝廷に召されて読経をお勤めになり、また秋季も同様に行はれたものである。然るに明治四年以来、すべて仏教の法要に関したことは、御菩提所たる京都東山の泉涌寺へ御委託に相成り、今日では春分秋分の二季、即ち彼岸の中日に春秋の皇霊祭を営まれる。〈中略〉故に皇霊祭は報本反始の御趣意に基いて行はせらるゝもので、臣民たる者は此の御恒霊に倣ひ春秋二季の彼岸に必ず祖先の仏事供養を営むの美風を積まれたい。
    日置黙仙禅師「彼岸三昧」参照


この一節からは、明治期に於ける彼岸会の成り立ちと、皇霊祭との関わりが明確に示され、また、その中で一般世間の人々に対しても、善行たる先祖供養を営むべきことを示している。ただし、日置禅師の御垂示を拝見すると、当時の人々は祝日のみ享受し、先祖供養をしていないことに苦言を呈してもおられる。

現代に於いても、各御寺院の御努力で、彼岸会に於いて様々な法要が営まれている。世間の人からすると、御彼岸の中日もただの祝日くらいにしか思われていないとは考えられるが、上記のような成り立ちがあることに鑑み、仏教徒として大事にしておきたい期間である。

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