つらつら日暮らし

江戸時代の彼岸会の様子(令和5年度・秋の彼岸会)

『彼岸之弁』の連載が終わったので、残り2日は、関連する事柄を学んでみたい。よって、かつての彼岸会の様子を探るために、『江戸年中行事』(三田村鳶魚編・朝倉治彦校訂、中公文庫・昭和56年)に基づいて、記事を書いておきたい。

本書には全部で15編の江戸における年中行事に関する文献が収録されている。それを見ていると、「彼岸会(ひがん)」に関する記述があることが分かったので、関連する文脈のみを抜き出し、備忘としておきたい。なお、この15編の文献だが、元禄3年(1690)から、安永6年(1859)までに開版(刊行)されたものであり、江戸時代のごく初期はやや不明瞭ながら(とはいえ、都市としての江戸を造営中であり、記録されるまでも無かろう)、江戸時代中期から末期にかけてよく知られるものといえる。

それから、確認しておくが、今は春分・秋分の日付の関係で、彼岸会は3月・9月に行われるが、当時はまだ旧暦であり、彼岸会は2月・8月になる。よって、そのことは予めご理解いただいた上で、記事をご覧いただきたい。

(2月)○彼岸の中、六阿弥陀参。
行基菩薩、一木の光明木を以、阿弥陀六躯を彫刻あり、今六所に納まる、其六所を順礼する、所謂六ヶ寺は前集にくはし。
    享保20年(1735)版『続江戸砂子』「江府年行事」、前掲同著37頁


先に挙げた甘茶の件は、いわゆる釈尊降誕会(近代以後に「花まつり」とも呼称)に関わることだが、実はそちらの方が記録として古い物から出る。彼岸会は上記の通り、享保年間の文献に確認出るが、末尾に「前集にくはし」とある通りで、本書の前版に見えるものだといえるから、時期的にはやや遡る。そして、江戸の彼岸会は、行基菩薩が彫ったという「六阿弥陀仏」を祀った「六ヵ寺」を回るものだという。これは、そういうような「宣伝」でもあったのかもしれない。

なお、上記文献の「二月」の冒頭には、「二月、八月に一日づゝ、一年に二日あり、春分(二月の中也)にちかき……」(前掲同著、35頁)という一節が見え、春分があることは良く分かっている。

(2月)△彼岸中 六阿弥陀参詣多し。
    寛延4年(1751)版『江戸惣鹿子名所大全』「江都年中行事」、前掲同著75頁


こちらも、六阿弥陀のことに触れている。

(2月)ひがん 諸所寺院参詣多し、○おく沢九品仏参り、○六あみだ参り。
○六阿弥陀 一ばん本木長福寺、●二ばん沼田延命院、●三ばん西が原西光院、●四ばん田ばた地蔵院、●五ばん下谷広小路常楽院、●六ばん亀戸常光寺。
    享和3年(1803)『増補江戸年中行事』、前掲同著125頁


それで、江戸時代も末期になってくると、現在の世田谷区奥沢の九品仏浄真寺(浄土宗)も彼岸会のお参りがなされるようになったようである。確かに、こちらも阿弥陀仏がある寺院として有名な場所である。それから、六阿弥陀仏について、場所が明記された。結構、江戸という街全域にあった様子が分かる。それで、回り方については後述する別の文献に挙がっているので、後に見ておきたい。

なお、上記六阿弥陀の場所について、現代の地名や寺院名を書いておきたい。

本木長福寺⇒本木とは現在の東京都足立区内にある。なお、北区豊島の西福寺のことであるともいう。
沼田延命院⇒足立区江北(現・恵明寺)
西が原西光院⇒北区西ケ原
田ばた地蔵院⇒北区田端(現・与楽寺)
下谷広小路常楽院⇒台東区下谷(現在は調布市に移転)
亀戸常光寺⇒江東区亀戸


江戸六阿弥陀仏については、【江戸六阿弥陀の案内(猫の足あと)】というサイトがあるが、同サイトの内容と上記内容は一致しない。理由については、もっと詳しく見ていく必要があるかと思う。

なお、先の『増補江戸年中行事』では、他書とは違って「八月」の項目に「ひがん 所々寺院並六阿弥陀参詣、二月のごとし」(141頁)とあって8月の彼岸会のことも指摘している。

(2月)○彼岸六阿弥陀詣。
一番 上豊島村 西福寺。
二番 下沼田 延命院。
三番 西か原 無量寺。
四番 田畑 与楽寺。
五番 下谷 常楽院。
六番 亀戸 常光院。
宮城村性翁寺弥陀如来の像、俗に木余りと云。
○奥沢村浄土宗九品仏参。
○西方三十三所観音札所参。
○同中日、増上寺山門をひらく。
○高輪泉岳寺、経文にて画ける大曼荼羅を掛る。
○小石川牛天神境内、入日を拝す、秋の彼岸に同じ。
    安政6年(1859)版『武江遊観志略』、前掲同著192~193頁


こちらの内容は、先に挙げたサイトの内容に相当近い。ただ、延命院の名前が違うし、常楽院も場所が違う。そして、1735年の記載から常に、江戸の彼岸会には六阿弥陀寺が中心的に信仰されている。そして、九品仏が入っているけれども、それ以外にも、彼岸会中日に増上寺が山門を開いて参詣を許し、高輪泉岳寺(曹洞宗)も大曼荼羅を掛けて祀った。また、最後にある「小石川牛天神」の話は、「入日」とあるから、日没を見たということなのだろう。特に彼岸会中日の日没は、真西に太陽が沈む。我々の住む世界の真西には西方極楽浄土があると信じられていたから、そちらに向かっての参詣となる。

(2月)○彼岸は其年の暦にある春分の日より七日の間を彼岸とす、諸所寺院の法会はさら也、行基菩薩の作、一木六体の阿弥陀を安置する寺々へ参詣するを六あみだ参りとて人群れをなす、其寺々は(但し番数順路にしたがふ)△(い)五番、天台常楽院、下谷広小路、田ばたへ廿五町、△(ろ)四番、真言与楽寺、田ばた、西が原へ廿町、△(は)三番、真言無量寺、西が原、としまへ廿五町、△(に)一番、前集元木西福寺、豊島村、沼田へ十五丁、此道船渡あり、△(ほ)二番、真言延命院、沼田、亀戸へ二り半、△(へ)六番、禅宗常光寺、亀戸、日本橋へ一り余、△右日本橋より立いでて日本橋へ帰る、道法凡七里十三丁也、参詣する人の住所によりて、亀戸よりうちはじむるもあり、ひがん中はさんけいあたまある故、道をしらざる人も参詣の人に随ひゆけば道にまどふ事なし、されど絵図にあらはして其おほかたをしらしむ、また西方六あみだとて、さんけいあり、△一番、西の久保大養寺、運慶作、△二番、飯倉かはらけ丁善長寺、弘法作、△三番、三田四丁め春林寺、春日作、△四番、高輪かうしん堂よこ丁正覚寺、安阿弥作、△五番、白銀正源寺、作不聞、△六番、目黒祐天寺、恵心作、△山の手六あみだ、西方三十三所観音参りの寺々、小冊故もらせり、○彼岸の中日、△増上寺、△浅草寺、△東海寺山門開き登るをゆるす(上野はひらかず)、△高輪泉岳寺、経文にて画る大曼荼羅掛る。
    嘉永4年(1851)版『東都遊覧年中行事』、前掲同著371~374頁


若干、年数が前後するけれども、こちらも彼岸会について詳細な記述となっていることが分かる。また、阿弥陀仏に関わる参詣方法も、江戸時代中期からある「六あみだ参り」がかなりの人気を誇っていたことが分かる。それは、道順まで詳しく示されているためである。特に、「ひがん中はさんけいあたまある故、道をしらざる人も参詣の人に随ひゆけば道にまどふ事なし、されど絵図にあらはして其おほかたをしらしむ」とあって、参詣者の利便性の向上を図っていた様子が分かる。

ただし、それ以外にも「西方六あみだ」であるとか、「山の手六あみだ」などもあったとされる。この辺を素直に考えれば、「六あみだ参り」の人気を見ながら、二匹目や三匹目のドジョウを探した当時の寺院の様子を考えるべきなのだろう。

さて、江戸時代の彼岸会については、「六あみだ参り」を中心に、諸寺でイベントが増えていく様子を見ることが出来た。なお、明治時代に入ると、ここに国家神道の影響を受けた「皇霊祭」が主になるようになり、いわゆる彼岸会という様子が薄まってしまう。それから、或る種の阿弥陀仏詣でであったわけだが、日本人の死生観の変遷とも影響があるかと思われる。

また、上記内容はあくまでも、江戸時代の江戸の様子であるから、他の地域での様子などは別途調べなくてはならない。一例として考えていただければ幸いである。そして、上記内容はさておき、この彼岸会の間には、寺参り・墓参りを行って欲しいと思う。

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