さて、かの僧正、鎌倉の大臣殿に暇を申して、京に上りて、臨終仕らん、と申し給ひければ、
御年たけて、御上洛煩はしくも侍り。いづくにても御臨終あれかし、と仰せられけれども、
遁世聖を世間に賤しく思ひ合ひて候ふ時、往生して京童部に見せ候はん、とて、上洛して、六月晦日の説戒に、最後の説戒の由ありけり。
七月四日、明日終るべき由披露し、説戒目出くし給ひけり。人々、最後の遺戒と思へり。公家より御使者ありけるに、客殿にして御返事申して、やがて端座して化し給ひにけり。
門徒の僧どもは、由なし披露かな、と思ひけるほどに、
同じき五日、安然として化し給ひけり。
かたがた目出かりけり。
無住道曉禅師『沙石集』巻10末、段落は当方
以上である。こちらが、栄西禅師の最期の御様子を伝えた一節である。この内容からすると、まず栄西禅師は「鎌倉の大臣殿」へ暇乞いをして、「京都に上って、臨終したいと思います」と希望を述べたという。なお、この大臣殿とは、三代将軍・源実朝のことである。
そこで、実朝は「お歳も取られて、上洛されるのも大変なことでしょう。どこであってもご臨終を迎えられては如何でしょうか」と仰ったのだが、栄西禅師は「遁世聖を、世間に賤しく思われているので、京都に行って、童どもに臨終の様子を見せたいと思います」と述べて、直ちに上洛すると、6月30日の布薩説戒に、「これが最後の説戒である」という言葉があった。
7月4日には、「明日、臨終することになる」と述べると、説戒もまた素晴らしい御様子で行われた。人々は、(これが栄西禅師の)最期の遺戒であると思った。
公家から御使者が来たので、客殿で御返事を申して、すぐに端座して遷化された。門徒の僧達は、「意味の無い披露だ」と思ったが、同じく5日に、平安な御様子で遷化された。全てが素晴らしいことであった、とでも出来ようか。
ここで不思議なことがあって、「遷化」が7月4日・5日の2回記述されていることだが、おそらくは前者は遷化したふりだったのかもしれない。そして、5日になって、本当に遷化されたという理解が可能なのではないかと思う。
なお、一部の記録では、鎌倉で6月5日に遷化したと伝える場合もあるそうだが、しかし、様々な時期などを勘案すると、この『沙石集』の記載は、かなり古い方になるから、信用すべきであろうかとも思う。それに、門弟の一人だったともされる道元禅師は、後に永平寺で栄西禅師をご供養するための上堂を行われたが、その日付は7月5日と捉える方が合理的である。
よって、日付的には今日に御遷化なさったと拝し、ご供養申し上げたいと思うのである。合掌
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