つらつら日暮らし

「師走」の語源についての雑考

以前、【「師走」という言葉と仏教との関係について】という記事を書いた際、12月の和名である「師走」について、「仏名会」との関わりがあるという指摘をしたが、その「仏名会」に関する記事があったので、学んでみたい。

【四十二】御仏名の事〈付栢梨庄御酒事〉
△御仏名の事、十二月十九日、廿日、廿一日の間に、吉日を択て行るヽ也。仏名とは、三世の諸仏の御名を唱へて、一年の罪障を懺悔し御座也。貞観の比にや、一万三千仏を画図に顕して、諸国へ賦らせ給ける由、国史に見たり。
 此の時、左衛門の府の栢梨の庄と云所より、御酒を奉て、殿上にて、勧盃の侍る也。栢梨庄とは、所領の名なるへし。
    『塵添壒嚢鈔』巻7、カナをかなにし漢字を現在通用のものに改める


上記の内容からすれば、「仏名会」については、旧暦の12月19・20・21日の間の吉日を選んで行うべきものだという。だとすると、3日ともに吉日とは限らないので、かなり限られた期日の間に行う必要があったので、この辺が「師走(仏名会の導師が走って移動)」という言葉の語源になったのかな?という印象を得る。

それから、続く説明について、仏名会というのは、「三世の諸仏の御名を唱」えて、「一年の罪障を懺悔」することだとしている。そのため、「三世諸仏」の名前を記した、『三千仏名経』というのがある。中国の訳経目録では『三千仏名経』とはあるが、例えば、『大正新修大蔵経』などでは、『過去荘厳劫千仏名経』『現在賢劫千仏名経』『未来星宿劫千仏名経』という3本の経典になっている。

なお、何故、仏名を唱えることが懺悔になるかだが、上記3本の経典を見ていくと、しばしば「帰命懺悔」という表現が見える。つまり、仏名を唱えることが、当該仏陀への帰命(帰依)となり、それにより懺悔するという考えなのである。

南無過現未来十方三世尽虚空界一切諸仏に帰命懺悔す、至心に懺悔す、弟子等、今已に総相に一切の諸業を懺悔す、今、当に次第に更に復た一一に別相懺悔すべし、若しくは総、若しくは別、若しくは麁、若しくは細、若しくは軽、若しくは重、若しくは説、不説、品類に相い従いて、願わくは皆、消滅せんことを。
    『現在賢劫千仏名経』


このように、一切の諸仏に帰命懺悔するのだが、大乗仏教に於いて、仏名自体に功徳が認められたからこその考えであることが分かる。この辺についてはまた、「歎仏会」などとの関係もあるし、一部の宗派では、「三千仏礼仏」をもって懺悔しつつ、授戒会を実施する場合もあるので、その辺の展開なども見ておきたいところである。

例えば、『梵網経』には以下のように見える。

若し十戒を犯ぜし者有れば、応に教えて懺悔せしむべし。仏・菩薩の形像の前に、日夜六時に十重四十八軽戒を誦せしむべし。苦到に三世の千仏を礼して好相を見ることを得せしめよ。若し一七日、二三七日、乃至、一年なるも、要ず好相を見るべし。好相とは、仏来りて摩頂し、光を見、華の種種の異相を見れば、便ち滅罪を得。若し好相無くんば、懺すると雖も益無し。是の人、現身に亦た得戒せず。而も増長すれば受戒することを得。
    『梵網経』巻下「第四十一悪求弟子戒」


以上の通り、『梵網経』で「三千仏礼仏」による懺悔を導入していることが分かる。特に、「三世の千仏を礼して好相を見ることを得せしめよ。若し一七日、二三七日、乃至、一年なるも、要ず好相を見るべし。好相とは、仏来りて摩頂し、光を見、華の種種の異相を見れば、便ち滅罪を得。若し好相無くんば、懺すると雖も益無し」の部分だが、「好相」の具体的な定義も見られるので、以前にアップした【ネット時代に自誓受戒は成立するのか?】でも、この辺を参照すれば良いということになるだろう。

ということで、「仏名会」について、わずかばかりの見解を弄してみたが、もう少し詳しい作法書などを見てみたい気もする。それはまた、機会を改めて見ていきたい。

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