便ち能く物を転じ根塵を離れず、手を信べて拈来すれば、互いに主伴を分かつ。乾坤眼浄、今古更に陳ぶ。覿体の神機、自然に符契す。
所以に維摩詰曰わく、寂滅定起こらず、而も諸もろの威儀を現ず。是れ宴坐と為すなり。
然らば当に水澄で月現ずるを知るべし。鏡浄して光全なり。
学道の人、坐禅を要と為す、苟し爾らざれば、修途に輪転して、汩、四生に没し、酸鼻痛心、以て自ら黙し難し、聊か大概を書して、真源を助発す、果して修を廃せざれば、即ち同参契ならん。
『緇門警訓』巻上
以上が、仏心本才禅師『坐禅儀』の末尾である。まず、冒頭で示されているのは、「無功用の道」についてであろう。それは、対象となる物質は働かせるけれども、六根と六塵という我々の感覚器官と、それが感じる対象とが離れないという。しかし、手を伸ばして持ってくると、主と伴とを分けるというから、分別になることを意味している。
乾坤を見る眼が浄らかで、今古に対して述べれば、本質を見抜く働きに自然に契うという。
そして、それを『維摩経』「所説経弟子品第三」から舎利弗の引用して、上記のように示しているが、いわば、滅定が起こらず、しかし、威儀を現ずる宴坐を示している。つまり、坐禅とは、物を変じること無く、ただ坐禅人本人の心が澄むことで、ありのままに一切の事象(威儀)を示すのである。
つまりは、水が澄めば月が現れ、鏡も表面が綺麗であれば、よく光を映すのである。これを踏まえて、学道の人に対し、坐禅を要とすべきだと示す。もし、それが果たされなければ、修行の途中に退転し、結局は四生に没する(要するに、輪廻を逃れられない)という。真源を発する修行を廃しなければ、仏道に契うとしているのである。
個人的には、「真源を助発する坐禅」の真意を明らかにしたいものだが、余計な計らいをせずに、しっかりと坐ることが第一であろう。