なお、大本山永平寺を開かれた道元禅師は、富士山をご覧になったと思われる。機会は1回、もしかしたら2回だったのかもしれない。確実なのは、宝治年間に行われた鎌倉行化である。
宝治二年〈戊申〉三月十四日の上堂に、云わく、山僧昨年八月初三日、山を出でて相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。今年今月の昨日帰寺し、今朝陞座す。
『永平広録』巻3-251上堂
以上の通りであるが、道元禅師は宝治2年(1248)8月3日から、翌年3月13日までの期間、鎌倉に赴かれたのである。どのルートを通られたかには諸説あるが、そもそも鎌倉がある、現在の神奈川県中央部から富士山は一般的に見ることが可能で、更には冬の時期の鎌倉行化であったから、ちょうど今日のように、冠雪した富士山だったことだろう。
それから、もう一点、以下のような記述もあり、こちらも気になるところである。
始め本国に帰りて、建仁寺に寓し、漸く隠居地を求め、有縁の旦那の施す所、所々歴観す、僅かに一十二所、遠国畿内、皆意に合わず。
『永平寺三祖行業記』「道元禅師章」
このように、道元禅師は中国で伝法して帰国された後、しばらくは元々修行されていた建仁寺におられたが、その間、縁があった檀越が施そうとした土地を12箇所ほど回ったとされる。その様子が、「遠国畿内」とされており、現在の東海・関東にまで足を伸ばした場合には、富士山をご覧になった可能性があるといえる。ちょうど1230年頃、京都中心に飢饉であったとされ、それを避けて地方に赴かれた可能性もあるのである。
なお、道元禅師の鎌倉行化には、永平寺二祖・懐奘禅師も随行したとされるため、懐奘禅師も富士山をご覧になったことだろう。
師、師命を受けて洛陽の建仁・東福、東関の壽福・建長、遍歴順観す。
『三祖行業記』「義介禅師章」
以上の通り、永平寺三祖・徹通義介禅師も鎌倉に赴いたとされるため、富士山をご覧になったことだろう。そうなると、富士山を見ていないのは、関東に赴いたという記録が残らない瑩山紹瑾禅師からとなるだろうか?そして、瑩山禅師にも相見し、孫弟子となる祇陀大智禅師には「富士山」と題された偈頌が『大智禅師偈頌』に残る。
大智禅師の偈頌はまた、来年にでも参究してみたい。
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