いわゆる仏法僧を求めず、福智知解等を求めず、垢浄情尽も亦、此の無求を守りて是と為さず。亦、尽処に住せず、乃至、河沙戒定慧門無漏解脱、都て未だ一毫にも渉らず在る等は、此れは是れ大小僧衆の受戒護戒、日夜進取的の規式なり。
『洞上規縄』「附録」
問題は、最後の「受戒護戒」の話である。ここでは、いわゆるあらゆる事象への「不求・無求」を前提にしつつ、そこにも安住をしないで、戒定慧などにも拘らない様子こそが、「大小僧衆の受戒護戒」であるとしているのである。一見すると、何を示そうとしているのか理解出来ないかもしれないが、まさに禅としての仏向上こそが、受戒護戒なのであり、これが転じて『清規』にもなるのである。
本書では、道元禅師の『弁道法』に見える一節「仏仏祖祖、道に在りて弁じ、道に非ずしては弁ぜず」を非常に重視している。問われているのは「道」であり、これは仏祖の悟りや修行などを総合的に表現する字句である。いわば、仏祖の法にあるということが、仏祖にとっての「弁道」なのであり、そこで、先に挙げたような、「不求・無求」にも留まらずに、仏向上という様子が肯定されるのである。
拙僧つらつら鑑みるに、ひたすらなる仏向上の道には、戒定慧という三学すら最早滞ることは無い。それを、呑空禅師は一言「日夜進取的の規式」と述べている。然るに、「日夜進取的の規式」について、もしただの自由の履き違えであれば、何もせずとも良いように思うかもしれない。しかし、呑空禅師は『弁道法』『赴粥飯法』『瑩山清規』などから、四時坐禅・二時粥飯・三時諷経などを総合的に行う叢林修行を提案している。
いわば、現在の我々が行う日分行持にも通じていることが分かるのだが、それをもって、「日夜進取的の規式」とはいうのである。つまり、禅門の解釈をもってすれば、毎日の滞りない生活こそが、受戒護戒なのであり、律の実践なのである。そう思う時、やはり我々は形式的にただ形を守ることに寄与することは出来ないといえる。
今回紹介した『洞上規縄』もまた、形を守るばかりだと思われるかもしれないが、実際には、仏祖の道に契うという大前提で語られる軌範である。その意味では、形にとらわれるのではなくて、形を実践するという態度が求められているのである。或いは、その真実の自由さこそが、曹洞宗に於いて数多くの清規を生み出し、その後も繰り返し改訂されるに至った動機であるように思う。
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