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つらつら日暮らし

天桂伝尊禅師の「愛語」について

良く、道元禅師の「愛語」について記す人は多いけれども、おそらく出典にしているのは『修証義』「第四章発願利生」であって、原典である『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻ではあるまい。「四摂法」巻というのは、恐らくは初期の段階で編集されたであろう、75巻本(「現成公案」に始まり「出家」に終わる)にも、12巻本(「出家功徳」に始まり「八大人覚」に終わる)にも収録されず、一時は、永平寺5世・義雲禅師の編集か?ともいわれていた、60巻本(「現成公案」に始まり「帰依仏法僧宝」に終わる)に見える巻である。同様に「法華転法華」巻も60巻本系に見える。なお、「95巻本」というのには、皆入っているので、鴻盟社から出ている『本山版縮刷正法眼蔵(全)』を買っていただくと、一冊で皆読める。

さて、そうなると、この「60巻本正法眼蔵」というと、義雲禅師による『正法眼蔵品目頌』とか、江戸時代初期の学僧・天桂伝尊禅師による『正法眼蔵弁註』なんていうのがあって、それで見れば「四摂法」巻も、詳しいことが分かるじゃない?とか思っていたのである。せっかくだから、「愛語」について見てみようよ、なんて安易な気持ちで、『弁註』を読んでみたら・・・とてもガッカリ。

「四摂法」巻の解釈は、ほとんど「布施」にばかり注力されていて、「愛語」なんてたった一言だった。しかも、本人の意見じゃなくて、引用文という状況。あぁ、始めから「布施」にしておけば良かった。でも、仕方ない、ここまで来たら完遂しよう。

弁じて曰く、『菩薩蔵経』に云く、いわゆる布施・愛語・利行・同事、かくの如くを名づけて「四種の摂法」とす。言うところの施とは、具に二種有り。一つには財施、二つには法施。法施というは、所聞の法の如く、広く他のために説く。愛語というは、無染心を以て分別し開示す〈以下略〉」。
    『弁註』「四摂法」篇


・・・これだけか。で、この出典だけど、『菩薩蔵経』と書いてある。一瞬『菩薩戒経』と見間違えたけど、「蔵」だった。だとすると、『大宝積経』巻54「菩薩蔵会」が、これに相当する模様。「大自在天授記品第十二」というのがあり、そこにこの本文があった。ただ、それ以上のコメントをしようがないと思っていたら、こっちの『大宝積経』の本文の方がかなり面白い。「愛語」についての定義が繰り返し行われている。目に付いただけでも引用してみると、以下の通り。

・愛語というは、謂く一切諸の来求して乞い或いは聞法を楽うに、菩薩、悉く能く愛語もて喩え慰む。
・愛語というは、来たり乞い求むる諸の衆生の所、善言もて安じ慰む。
・愛語というは、方便して断ずる無し。
・愛語というは、常に歓喜の心を捨離せず。
・愛語というは、既に施財し已に重復して処を安んじて法義を住せしむ。
・愛語というは、一切法に於いて功徳・智慧秘惜する所無し。
・愛語というは、無染心を以て分別開示す。
・愛語というは、いわゆる演説利益の事。
・愛語というは、所謂尸羅波羅蜜多、及び羼底波羅蜜多を以てす。
・愛語というは、謂く已に行を発すの一切菩薩。
・愛語というは、菩提の萌芽の成就を欲せんとす。


天桂禅師が引いたのは、7番目の定義のみである。勿論、上記11項目全てをご覧になった上で、それが相応しいと判断されたのであろう。ただ、一番分かりにくいものを選んでしまった感が強いが・・・他の項目はまだ、具体的な実践の様子なども想像可能である。しかし、7番目は、無染心、つまりは不染汚の心によりながら、逆に分別開示を行うという。この矛盾はどう解決すべきなのか?不染汚の修証を考えると、この現実(事)と、本性としての道理(理)との関わりの中でこの問題は避けようがないのであろう。

で、しかも、この愛語の説明自体が難しすぎて、あんまり愛語っぽくないというのが笑えたりする(笑)まさか、「無染心」を選んだのは、天桂禅師一流のギャグにも見えてしまう。つまり、「愛語」の事実をむき出しにしてやろうと?

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