つらつら日暮らし

7月14日 懐奘禅師永平寺住持職に就位

旧暦の日付であれば、という話ではあるのだが、7月14日というと、永平寺の二祖・懐奘禅師(1198~1280)が住持職に就位した日付となっている。今日はその経緯などを学んでみたい。

まず、懐奘禅師の永平寺住持職就位について伝えるのは、最古の伝記の一である『三祖行業記』『三大尊行状記』ともに共通している。

 建長五年癸丑七月十四日、即ち住持位に著く。
 夜間に小参し、早朝に上堂す。
 元和尚、病床たりと雖も、輿に乗りて来たりて、聴聞し証明す。
 然りと雖も、師に事ふて礼を捨てず。
    『三大尊行状記』「永平二代懐奘和尚行状記」、訓読は拙僧で以下同じ


以上の通りなのだが、建長五年とは1253年である。道元禅師最晩年であり、この日から約1ヶ月半後の8月28日に、御遷化された。永平寺住持職承継に関連して、以下の記述もある。

△建長五年七月十四日、二代弉和尚御入院あり、開山御在世之内也。
    『建撕記』


『建撕記』の成立は、『三大尊行状記』からは200年近く後の時代になってしまうけれども、永平寺14世・建撕禅師によって編まれた道元禅師伝である。その中に、以上のように懐奘禅師の永平寺住持職就位について触れており、「開山御在世之内也」としている。つまり、道元禅師が御生前中に、永平寺の住持職を譲られたことを示す。

そこで、この辺は余り良いまとめ方ではないかもしれないけれども、以下のように示してみたい。まず、道元禅師はこの時、既に御病気が進んだ状態であった。

・建長四年壬子秋、病を示す。 『三大尊行状記』「越前吉祥山永平開闢道元和尚大禅師行状記」
・右の本、先師最後の御病中の御草なり。以前に仰せには、撰ずる所の仮字正法眼蔵等、皆な書き改め、并びに新草具に都廬一百巻、之を撰すべし、云云。既に始草の御此巻、第十二巻に当たるなり。此れの後、御病、漸漸に重増す。仍りて御草案等の事、即ち止むなり。 『正法眼蔵』「八大人覚」巻の懐奘禅師奥書


以上の通り、道元禅師は御遷化される前年の秋から、病気となられたという。しかし、その中でも『正法眼蔵』の執筆作業は進められていたが、「八大人覚」巻をもって、その作業が終わってしまったことを懐奘禅師が記録されている。そうなると、建長五年の夏安居などはどうなったのか気になるのだが、道元禅師は「大覚世尊、すでに一代のあひだ、一夏も欠如なく修証しましませり」(『正法眼蔵』「安居」巻)と示されたこともあるので、おそらくは修行されたものと思われる。しかし、普段の夏安居であれば、結制・解制の小参や、安居中の上堂語などが『永平広録』に記録されるところ、建長五年に該当すると思われる説示は見えないため、おそらく御自身は病床に臥せったままで、懐奘禅師などに代理をさせていたものと思われる。

そこで、夏安居の解制前日の7月14日に永平寺住持職を譲られたことについて、これはしっかりお決めになられて譲られたものと思う。まだ夏安居中なので、安居のために当時の永平寺に拝登した随喜衆もまだ、山内にいたものと思われる。その中で、譲ったということは、明確に懐奘禅師が後継者であることを内外に告げる意図があったものと拝察される。しかも、道元禅師御自身は遷化されても、永平寺での安居は懐奘禅師を中心に続けていくこともまた、明示したものと思われる。

なお、道元禅師は以前から、懐奘禅師に後継者になるよう示していたことが知られている。

 元公、永平寺に移り、衆の行法を始める時、必ず師を以て始行せしむ。
 師、有る時、問うて云く、「和尚、什麼としてか、一切の事を行ずるに、必ず某甲を以て始行せしむるや」。
 元曰く、「当山は仏法の勝地なり。法をして久住せしむるは、是れ所望なり。我、公より少いと雖も、必ず短命なるべし。公、我より老たりと雖も、必ず長寿なるべし。我が仏法、必ず公に至り来際に弘通し、流伝して窮まり無きは、即ち公の児孫なるのみ。所以に山門を鎮む、故に公をして行事を始めしむ。蓋し是れ法をして久住せしむるなり」。
    『三大尊行状記』「永平二代懐奘和尚行状記」


以上の通り、道元禅師は永平寺に移られてからというもの、大衆とともに修行(法要)を行う際には、必ず懐奘禅師に行わせていたという。その理由を、懐奘禅師が道元禅師に尋ねられたところ、上記のような回答があった。実際、道元禅師と懐奘禅師では、懐奘禅師が二歳年長となる。しかし、道元禅師は御自身が短命であることを悟っておられたのか、仏法を久住させるには、懐奘禅師の力をもって行うべきであると考え、様々な行法を行わせていたという。しかも、未来にまで仏法が久住するのは、懐奘禅師の児孫がそれを行っていくと明言されていた。

当然、仏法とは具体的な修行をもって継続的に保持されていく(『正法眼蔵』「陀羅尼」巻を参照)ものであるから、以上のようなお考えについては、全く矛盾無く理解されるべきものである。そこで、先に挙げたような永平寺住持職の承継がなされたのである。なお、個人的には、病床にあった道元禅師が、輿に乗ってまで来られて聴聞・証明されたという懐奘禅師の上堂・小参が、『懐奘和尚広録』として、本来は残ったものだと思っているが、現存していないことを、つとに悔やむものである。

また、数日後に記事にすると思うが、道元禅師は夏安居を最大事の修行と捉え、何か大きなことをされるには、夏安居の解制を待って行われていた。例えば、京都から越前への移転開始や、鎌倉行化の旅立ちなどである。しかし、懐奘禅師への永平寺承継は、敢えて夏安居中に行われたことに、強い意味を感じ取ったが故に、上記の通り記事にした次第である。

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