或る日示していわれるには「今時の人は、仏法は悟らなければ用に立たないと思っているようだが、その儀では正しくない。仏法というのは、ただいまの我が心をよく用いて、今の用に立てるのである。なるほど、心を強く用いることを修行とするのである。心が強くなるほど、次第に使えるのである。大きく勤めれば、大きな徳があるし、少しだけ勤めれば、少しの徳があるのである。
例えば、万石取りには及ばないけれども、千石取れば百石取りには勝るようなものである。その分に応じて、徳を得るのである。
さて、また悟り入れば仏の境界だと思うものだ。それでも、無事である。例え、見解があっても自由に使うべきではない。仏の境界というのは、格別のことである。ただ、悟りを求めずとも、修し行じて、徳に到るべきである」と。
『驢鞍橋』上-77、拙僧ヘタレ役
以前、拙ブログでも紹介したのですが、鈴木正三は、仏法について、学べば学ぶだけ、その利益があるというような、従量的修行観を唱えていますから、そのことを知っていれば、この引用したものも、それほど難しくはないと思います。つまり、仏法というと、悟りを開いて、何についても、よく知っているような状況でないと役に立たないと思っている人が多いと思いますけれども、それは間違いだというのです。
そうではなくて、学べば学んだだけ役立つといい、さらに、その時には、我々の「心」を強く用いることで、修行に寄与するのです。「心」を強く用いれば、それだけ常に、我々自身と世界との関わりについて変化が起こります。そして、この変化の方向を、仏教の教義に従って行うことで、我々にとって世界の見え方は仏教化されるわけです。この経験があれば、少し学べば少しだけ、多く学べば多く、仏教に親しむことが出来、さらに、それを自ら使うことが出来るわけです。
自ら使い切るには、仏の境界に悟入する必要がありますけれども、しかしながら、徹底して悟入すれば、その悟入に特別なものは無いと知るでしょう。特別なものとは、我々自身の人格を組み替えることもないし、或いは仏という特別な存在になるのでもない。むしろ、そのような特別な存在になるのではなくて、仏教というのは、この我々人間がどう生きるかという問題を説くものです。
そして、余計なこだわりを持たず、よくよく見極めて生きることこそが肝心であるといえます。その見極めなどに仏教は役に立つわけです。しかし、だからこそ、「俺は仏法について、こう思う」とかいう、この「私見」は、排除されねばなりません。私見を排除し、仏見を導入する、これこそが仏法を役に立てる方法です。
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