つらつら日暮らし

今日は「いい夫婦の日」らしい

今日、11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」である。我々曹洞宗では、しばしば、法要の回向文で「家内安全」「子孫長久」などと祈ることもあり、いい夫婦は、檀信徒の良い模範ともいえるというのが、まずこれまでの通説であったかと思う。その結果、子々孫々まで繁栄し、歴代にわたって寺院を護持下さることを願うという構造が維持されることを期待した。

ところが、現代では「単身世帯」、つまり、独り暮らしがかなり増加しているといわれる。予測も含むが、以下のような記事もあるので紹介しておきたい。

2025年:単身世帯が1996万世帯 加速する「ソロ社会」化(みずほリサーチ&テクノロジーズ)

よって、現状、婚姻関係にある夫婦は、もちろん檀信徒の多数を占める一方で、単身世帯も次々増えている。その点に於いて、寺院の運営について、大きな支障を来すのかもしれない。

そして、これは檀信徒の側だけでは無く、僧侶側も同様かもしれない。ただし、この辺は以前から指摘されていた印象もある。その理由として、1917年(大正6)7月に刊行された栗山泰音禅師『僧侶家族論』(桜樹下堂、栗山禅師は昭和9年から大本山總持寺独住第8世))に於いて、当時の様々な問題点が示されるのだが、その内容には、我々の現状と余り大差無いような「悲観的状況」が示されている。よって、かつての悲観的状況が如何なるものだったのかを見ておきたい。

 今の宗門は不振なる宗門である、如何に贔屓目に見て、如何に曲説強弁せんとするも、不振は依然不振たるを免かれない。
 然らば、何故に斯く不振なるか、その原因は多々あるべしと雖も、一般僧侶の徳行欠乏して、人前に師表たるべき資格なきこともその一であらう。宗門当路者の手腕貧弱にして一定の宗是なく、一貫の政見なく、様に依て胡蘆を画いて日送りをして居ることもその一であらう。されどその最大主要の原因は、宗門僧侶の妻帯問題未だ解決する能はずして、曖昧模稜に漫過せること、確かにその一である。故にこの問題の解説せざる為め、宗門僧侶の徳行の基礎根柢が浮動遊離して、動物ともつかず、人間ともつかず、況や人天の師表、三界の導師などいへる称呼の附せらるべき実質を有せざるまでに落下して居る。
    栗山禅師前掲同著、109~110頁、文字表現・句読点等改める


良く、日本の僧侶、或いは曹洞宗の僧侶、でも良いが、1872年(明治5)4月に、それまでの江戸幕府が基本的に僧侶の妻帯を禁止していた(浄土真宗を除く)のに対し、これ以降はそれらを「関知しない(禁止しない)」ことを打ち出した。いわゆる、「肉食妻帯勝手たるべし」という話である。そして、一般的にはこれ以降になし崩し的に婚姻をする僧侶がほとんどだったという意見もあるようだが、それは実際の状況を反映していない。

(1)栗山禅師の御著作は大正年間の発行だが、その段階でまだ、僧侶の妻帯についての議論があった。

一例として、この件は曹洞宗内でかなりの議論をしたことは明らかで、従来からの修行体系を維持すべきだという場合と、現実に即して、妻帯をしていくべきだという、「反対派」「容認派」と真っ向からぶつかっていた。栗山禅師は繰り返し、この両派が相見え、腹の底から議論すべきだと示されるが、転ずればそういう環境が無く、お互いがお互いを批判する状況が続いていたのだろう。

そして、例えば、明治時代に大内青巒居士などが主唱して組織された「曹洞扶宗会」では、「曹洞宗改進方案」(『扶宗会雑誌25号』1890年7月)を開示して、宗門の改革を進めるように訴えた。そこでは、曹洞宗の現状に即して、宗義や寺院、僧侶の立場・資格を2つに分けるべきだとする。その2つとは、次のような分類が可能である。

・宗義:出家弁道 と 在家唱導
・寺院:弁道地 と 唱導地
・僧侶:弁道師 と 唱導師


要するに、前者は結婚などを始めとして、一切の仏制に背かず、修行を続けながら一生を送る人である。或いはそういう僧侶が入れる寺院も決めようとしていた。後者は結婚など一切の禁制無く(無論、国家の法律に違反することはしないが)、一般世間に入って多くの人に法を伝え、導く人と定めており、そういう僧侶が入る寺院も決めようとしていた。

ただし、この方案は両大本山の扱いで疑問が残るところがあり、永平寺を総本山に、總持寺を大本山として、永平寺一寺のみで全宗門を統括しようという考えも開示していた。結果として、この「改進方案」は具体化しなかった印象だが、一部は後にも制度として残った。つまり、總持寺の貫首を勤めた後、永平寺へ晋住するという状況があった。

一方で、各地の寺院で制度上、これらの2つに分けたという状況はどれほどあったのか?稀に、「各寺院の山風(寺院独自の規約)」や、各地の風習によって、寺院住職の世襲を禁止する場合があり、それが守られることもあるようである。とはいえ、扶宗会がいう程、システム的に分けたという印象は感じられない。

ただし、ここで論じたいのは、扶宗会が唱えたような「折衷案」が出されなければならないほど、明治20年代の曹洞宗は、色々と問題点があったことである。扶宗会が、実質的に曹洞宗の教化組織の全てに影響したのは、「住職試験免除」という権限を、当時の曹洞宗務局側に認めさせたという要素が外せない。「住職試験」とは、資質の有無を確認するためだけの試験ではなく、むしろ、教化方法や内容などを、正しく理解しているかを試すものであった。かつては「三条の教則」が明治政府から押しつけられたときに、その内容を回っての試験だったとされる。

つまり、栗山禅師はその時代に、僧侶が結婚したとして、それを白眼視する状況は僧侶と結婚した人(多くは女性)に対する差別だと批判し、その上で、様々な経論から菩薩が結婚を許されることを弁証しようとしたのが、『僧侶家族論』だといえる。そして、栗山禅師は夫婦による寺院運営・経営の良さを訴えながら、認めていくべきだとされた。

現状でも、夫婦や家族として寺院を護持していく方法が模索され、その上でより良い方向に進むよう努力することが肝要なのではなかろうか。この努力とは、檀信徒教化の徹底と、徒弟教育の充実、そして、地域社会への貢献などが主となるだろう。これらは、住職1人では実施は困難であろう。

そのような一々を思うと、夫婦というのも色々と考えさせられる。もちろん、東南アジアのテーラワーダなどとは、これまでの歴史も、社会の状況なども全く違うので、比べる意味が無いから、そちらを持ち出されて議論されてもな、とは思う。

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