あきらかに参究すべし、諸仏応化法身は、みなこれ三界なり、無外なり。たとへば、如来の無外なるがごとし、牆壁無外なるがごとし。三界の無外なるがごとく、衆生無外なり。無衆生のところ、仏何所化なり、仏所化は、かならず衆生なり。
「三界唯心」巻
これは、諸仏の応化身・法身は全て三界のことであり、外は無いということである。然るに、「報身」は何処に行ったのか気になるけれども、ここでは示されていない。参考までに、道元禅師の直弟子達による註釈でも以下の通りである。
教の中に応身化身法身と三身にわくる事あり。法身報身応身と立事あり。しはらく報応の二身に付て、応身に勝応身・劣応身と二身に立て、勝応身とは報身にあて、劣応身と応身とする時あり。
『正法眼蔵聞書』「三界唯心」篇
そうか。三身については、幾つかの表記があるということになり、先ほど拙僧が指摘した「報身」は何処に行ったのか?という問いは成り立たないことを意味している。また、応身を2種類とし、それの1つを報身として扱うといった話が出ている。そうなると、道元禅師が「諸仏応化法身」とされたというのは、三身についてだったといえるし、また、このような表記になったのは出典に応じたためだといえよう。
釈迦牟尼仏道、諸仏応化法身、亦不出三界。三界外無衆生、仏何所化。是故我言、三界外別有一衆生界蔵、外道大有経中説、非七仏之所説。
「三界唯心」巻
こちらがその一文となるが、典拠は『正法眼蔵抄』でも指摘する通りで、鳩摩羅什訳『仁王般若経』「菩薩教化品第三」である。護国経典として知られる同経だが、斯様に道元禅師に引用されている。そこで、結局この「応化法身」については、三身なのだろうか?それとも二身なのだろうか?どうも、宋代の註釈などを見ていると、やっぱり三身で捉えている印象である。ただし、法報応の三身というよりは、応化法という三身で考えているのは明らかなようである。
しかも、論旨は三身がどうというよりは、「三界を出でず」という方が重要で、或いは、この三界の外に衆生無く、三界の内の衆生は皆救済の対象になることから、この三身によって全ての衆生が救われるという話の方が余程大切だという話になるようだ。なお、何故そう述べるかといえば、先に引いた一節の前節は、『妙法蓮華経』「方便品」から引用した一節を用いて、「今此の三界、皆是れ我が有なり、其の中の衆生、悉く是れ吾が子なり」としている。
そして、何故このような救済が可能かといえば、仏陀の三身の功徳によって、あらゆる衆生が教化を頂戴できるためである。然るに、道元禅師はその考えを更に推し進めて、「無衆生のところ、仏何所化なり、仏所化は、かならず衆生なり」とまで仰った。衆生がいて仏が教化するという話では無くて、仏の所化と衆生との一体性を強く説いている。いわば、生仏一体のある一様態であるといえる。そして、そのような生仏一体の現場を三界とはいうのである。三界とは広がった世界の意味ではない。まさにこのような行為システムによる制作論的な「現場」を指すのである。
さて、今日、この一巻を参究したのは、この巻が寛元元年閏七月一日に提唱されたためである。今は閏月が無いので、今日でもって代用させた。
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