邦画天国、おきなわ天国

日本映画、特に昭和30年代、40年代の大衆娯楽映画&沖縄がお気に入り

『新世紀エヴァンゲリオン』を一気に観る。⑧劇場版air/まごころを君に

2006-07-24 22:53:21 | アニメーション
劇場版はエヴァのもうひとつのエンディング。
テレビ版24話から分岐する形を採っている。

精神的にぼろぼろになって、入院しているアスカから始まる話は、テレビ版における希望に満ちた明るい未来とは対照的な、まさしく悪夢。地上波では放映できない、残虐で、エロティック、グロテスクな人類の破滅と再生を描いている。


使徒を倒したネルフを襲って来たのは、紛れもない人間だった。
冒頭からショッキングな、殺戮シーンが繰り広げられる。
ゼーレ指令の下、国連軍がネルフ壊滅に動き出したのだ。
新たに判明する新型エヴァの存在。
迎え撃つために、立ち向かった2号機は大敗。
残された道は初号機だけ。


アスカを傷つけたショックからエヴァに乗ることを拒絶したシンジをミサトは導く。

「自分が嫌いなのね。
自分が傷つくより、ヒトが傷つく方が心が痛いから。」

「いい、シンジ君、もう一度エヴァに乗って、ケリをつけなさい。
エヴァに乗っていた自分に。
何の為にここに来たのか。
何の為にここにいるのか。
今の自分の答えを見つけなさい。」

シンジは迷う。
そして、結論を出す。

物語の後半「まごころを君に」で出された結末は、テレビ版とは異なる人類の破滅と再生。
サードインパクトを起こして、巨大化したアダム=レイはすべてを飲み込み、難解なラストへ。
映画は不可解なアスカのセリフで幕を閉じる。
この映画はどうなのかと人に聞かれても、答えようがない映画である。
わからない映画は世にごまんとあるんだが。

『新世紀エヴァンゲリオン』を一気に観る。⑦-人類補完計画とは?

2006-07-19 22:46:34 | アニメーション
-人類補完計画とは?

25話、26話はエヴァのエッセンスがいよいよ全貌をあらわし、物語の一応の結末となる。
最初に触れたとおり、エヴァンゲリオンは使徒と戦うロボットアニメ風の体裁をとりながら、
実のところ、幼少期に心に傷を負った人たちが、自らの心の傷に気づき、現実を受け止めるまでを描いた話である。断片的に語られてきたアダルトチルドレンである彼らの行動を、まるで専門医がカウンセリングしているような進め方で、物語は進行する。

この部分はわかる人には、「そうか、そうだったのか」と目からうろこが落ちるほど理解できる箇所であるが、健全で良好な家族関係を歩んできた普通の人には、何をいっているのか意味不明かもしれない。かつて、タレントの東ちづるは、自伝で自身がアダルトチルドレンだったことをカミングアウトしているが、カウンセリングを記述した部分はエヴァンゲリオン25、26話そのものだった。

ついに、明らかになる人類補完計画の意味とは、
人は誰もがコンプレックスを持っており、ひとりでは生きられない存在。
傷ついた各人を一体化して、心の隙間を埋め、神の領域である完全なる人類に到達する。
それが、人類補完計画。

心理的に逃げるとつらくなるのはアダルトチルドレンの特徴。
他人に認めてもらいたくて、自分を抑えてしまい、心を病んでしまう。
だから、彼らは自分が嫌い。なぜなら、自分の意思で行動していないから。
エヴァではシンジ、アスカ、レイ、ミサトらが、自己を喪失して、
使徒と戦うことで自分の生きる価値を見出している。


(以下内容に触れています。ネタバレありですが、読んでもわからないかも。)

最終26話では、ミサト、アスカ、レイ、それぞれの傷心ケースをたどり、
最後にシンジの番。

ながい、長い夢から覚めると、シンジには日常が待っていた。
普通の中学生生活。
父がいて、母がいて、朝になるとアスカが家に迎えに来て、クラスメイトにはレイがいて。
登校すると、ミサトが先生で。

夢オチで終わるのかと思いきや、
そうならないのがエヴァの凄いところ。
舞台は再びネルフに戻って、

ゲンドウがミサトが、アスカがレイが、シンジを諭す。

「お前は人に好かれることに、なれていないだけだ。」
「だから、そうやって人の顔色ばかりうかがう必要なんてないのよ。」

      「でも、ぼくはぼくが嫌いなんだ。」

「自分が嫌いな人は他人を好きに、信頼するようにならないわ。」

      「ぼくは、卑怯で、臆病で、ずるくて、弱虫で。」

「自分がわかればやさしくできるでしょう。」

      「ぼくはぼくが嫌いだ。」
      「でも、好きになれるかもしれない。」
      「ぼくはここにいてもいいのかもしれない。」
      「そうだ、ぼくはぼくでしかない。」
      「ぼくはここにいてもいいんだ。」

場面が急に広がって、
登場人物みんながシンジに向かって拍手をしている。
みな、口々に「おめでとう」と言いながら。

テロップ     - 父に、ありがとう。 母に、さようなら。 -

シンジは、
憎んでいた父を許し、引きずっていた母の面影から脱却し、
心理的に成長したのだ。
ここに、壮大なエヴァンゲリオンの物語は終了する。


進路、就職、結婚。
世の中には自分で決めなければならないことが多すぎる。
それでも、道は一本でなく、人には多くの選択肢と可能性があることをエヴァでは示唆している。
結局、エヴァンゲリオンとは謎の敵と戦うアニメのかたちをとってはいるが、
少年少女特有の情緒的不安と大人への心理的成長をもっとも描きたかったのだといえる。

大人にこそ、観てほしいアニメである。

『新世紀エヴァンゲリオン』を一気に観る。⑥

2006-07-18 22:19:07 | アニメーション
22~24話では、アスカ傷心の軌跡が明らかになってくる。
第14使徒に敗れて、自己嫌悪に陥ったアスカは、引きこもりのようになってしまう。

とつとつと語られるモノローグ。
「ミサトもバカシンジも嫌い。でも、一番嫌いなのは私」

過去に母親の自殺を目撃した幼いアスカは、愛情飢餓状態になり、人に認めてもらいたいがためにエヴァに乗ることで自分の存在を確認していた。使徒に大敗して、唯一繋がれていた糸が切れてしまい、心が壊れてしまったのだ。

そこへ、宙に浮かぶリング状の光を模した第17使徒アルミサエルの襲来。
迎え撃つは零号機 綾波レイ。
最終回まで残り数話でいよいよ明かされてゆく、レイの正体。
24話まで観てゆくと、綾波レイの実像というものが徐々にみえて来る。
碇ゲンドウの指令通りに動くのはなぜか。
シンジに母親のように語りかけるのはなぜか。
感情を表に表さないのはなぜか。

現われる最後の使徒、渚カヲル。
エヴァと自由自在にシンクロするカヲルを送り込んだゼーレの目的とは。

22話以降のエヴァは、予算がなくなってきたのか、過去の映像を使いまわしたり、
セルアニメ以外の方法で表現を試みたりしているが、かえってそれが、人のこころを赤裸々に訴える。

つづく

『不思議惑星キン・ザ・ザ』と『ピアノレッスン』

2006-07-16 23:29:17 | 外国映画
きょうはひまだったので、
フィルムセンターにソ連映画特集へ。
『不思議惑星キン・ザ・ザ』はへんてこなカルトSF映画。
レトロな宇宙船といい、脱力系な音楽とムードといい、お好きな人にはたまらないでしょう。
それ以上、コメントなし!
でも悪くない。ハートウォーミングなストーリーだしね。

チラシコーナーを物色していると、
日比谷で『ピアノ・レッスン』をやっている。
ので、はしごしました。

『ピアノ・レッスン』はフェイバリット・ムービーの1本。
昔、ビデオで観て、いつか映画館で観たいと思っていた映画。
今回、シャンテシネBOWシリーズ30年の一環でニュープリ上映が決定。
再見したわけだが、月並みな表現だけど「感動」。

19世紀にイギリスからニュージランドに嫁いできた子連れの女性エイダ。
彼女は、前夫を不慮の事故でなくしたショックから、口が聞けなくなっている。

彼女の心のささえはピアノ。
感情を表す手段がピアノを弾くことなのだ。
嫁ぎ先の夫は彼女に理解がなく、引越しのときに浜辺にピアノを置き去りにしてしまう。
ある日、ハーヴェイ・カイテル演じる近所の男に、海岸に連れて行ってもらったエイダは自己を取り戻したようにピアノを弾く。荒涼とした風景に波が打ち寄せられて、砂浜にぽつんと置かれたピアノを無心に弾くエイダに、マイケル・ナイマンの繊細なピアノの旋律がしみじみ胸に迫る。(この場面、日本映画でたとえるなら、斉藤耕一の『津軽じょんがら節』)

一見粗野なハーヴェイ・カイテルは、夫とは異なる情熱的な男で、エイダは徐々に惹かれて行く。
心の移り変わりをピアノの弾き方で表現したのが女性監督らしい。ちなみに原題はThe PIANO。
恋愛映画の主役にピアノを持ってくる画期的な手法で堂々カンヌ映画祭パルムドール。

「楽しみを希う心」
「ビッグ・マイ・シークレット」

この映画の成功要因は反復されるテーマ音楽にあるといっても過言ではない。
全編叙情的、しかも情熱的なマイケル・ナイマンのピアノは一人の女性の愛憎を
しっかりとらえて離さない。最初、孤独であったエイダが、心を開き、最後には愛を受け入れて、ピアノが不要になっていく様子を、ピアノの演奏が物語っている。

映画館ではエンドクレジットが終わるまで誰も立たなかった。
なぜって、音楽を最後まで聞いていたいから。
最後の最後まで、テーマ音楽を聞いて浸りたい映画である。
(サントラを聞きながら書きました。)

『新世紀エヴァンゲリオン』を一気に観る。⑤

2006-07-15 23:34:59 | アニメーション
第弐拾弐話 「せめて人間らしく」

アスカがエレベーターに乗り込むと、レイが乗っている。
気まずい沈黙。

ふたりとも無言のまま、画面は動かず。

作り手がまるで手を抜いたのかのように1分近く、まばたきが一回あったくらいで無音状態なのは、極めて印象的なシーン。

口火を切るレイ。
「心を開かなきゃエヴァは動かないわ」

逆上するアスカ。

レイとアスカの心理的関係を生々しく描いているアニメらしくない場面。

そんな折、宇宙から飛来する、火の鳥を思わせる光の姿をした第16使徒アラエル。
迎撃する2号機に対する攻撃が絶句するほどすさまじい。
使徒が放った光線は、人の深層に眠っていた意識を開放する攻撃。
過去の嫌な想い出と現実の自分を交互に見せられることで、
アスカは幼い頃に受けたトラウマを思い出して、精神的に衰弱してしまう。

戦闘シーンのバックに流れるのは有名なハレルヤコーラス。
以降の話では戦闘シーンにクラシック音楽が多用されている。

危機に陥った2号機を助けるべく、零号機が宇宙空間から接近する使徒に向かって、ロンギヌスの槍を投げて殲滅する。(ロンギヌスとは聖書に由来した言葉だそうだ。地球上から宇宙に向かって槍を投げるという発想はある意味スゴイと思うが。)

それにしても、シンジはモテる。
現実の世界でもシンジタイプはモテてる。
たよりないのは売りになるのだ。

つづく

『新世紀エヴァンゲリオン』を一気に観る。④ 

2006-07-14 20:52:21 | アニメーション
エヴァのもうひとつの特徴は、セカンドインパクト、ネルフの存在、使徒のキャラクターなど、聖書の終末譚を元に練られたSF的世界観である。生物や宇宙人、機械にモチーフを採られた、独特な使徒の造形と奇抜な攻撃パターン。戦闘シーンはまるで特撮映画をみているかのようなアングル。戦闘アニメとして、こういう根幹の部分がおざなりだと、肝心の心を描いても、パッとしないまま終わってしまう。第12使徒レリエルとの戦闘で細部まで書き込まれた、壊れた町を歩くリツコとミサト。荒唐無稽な話なのに妙なリアリティがある情景だ。

以降、最終話の謎に通じる、心理描写の複線をたどってみると、


第十二話 「奇跡の価値は」

成層圏から飛来する使徒サハクィエルとの戦い終わって、過去を語り出すミサト。(背景は、当然夕焼けの町)
彼女がネルフに入った表向きの理由とは。
セカンドインパクトで自分を助けて犠牲になった父。
ショックから一時的に失語症におちいった幼いミサト。
回復したミサトは使徒を倒すためにネルフへ入る。
もちろん父の敵を取るため。

でも、ほんとうは違う。
彼女は家庭を省みない父に復讐するためにネルフに入ったのだ。
ミサトは結局、シンジといっしょで、
父に認められるために、父を乗り越えるために、ネルフで指揮を執る。
ミサトの恋人、加持はそのことを察していた。


第十六話 「死に至る病、そして」

16話で登場する異形の姿を持った第12使徒レリエルが操る虚数空間(何のことやらわからんが、異次元空間のようなもの。『ファンタズム』に出てくるやつ?)へ閉じ込められたシンジが体験する死のはざまで見た心象風景は、

    だれもいない列車  窓から見える夕焼け

列車が走るシーンは、韓国映画『ペパーミントキャンディ』のソル・ギョングの心理描写を思い起こさせる。
列車は自分の人生。いっしょに乗っている人は人生に影響を与える人。


第弐拾話 「こころのかたち、人のかたち」

第13使徒バルディエルの戦いにおける犠牲は、シンジが自らの意思を主張し始めるきっかけとなる。
それまで、父親のいいなり、ミサトのゆうがままに行動していた彼に自我が芽生えるのだ。

エヴァから降りたシンジに、加持は、すいかに水をやりながら言う。
「自分で決めろ。後悔のないようにな。」

戦いその後、エヴァに取り込まれたシンジの内面描写は、あたかも、心療内科でカウンセリングを受けているかのような実験的な映像である。

夕日を背景に誰もいない電車に乗っているシンジとレイ。
レイはシンジに語りかける。
母親のように。

「寂しいって何?」
「これまではわからなかった。でも今はわかるような気がする。」
「幸せって何?」
「これまではわからなかった。でも今はわかるような気がする。」

光の帯。
ゆらめく水のイメージ。

シンジのこころの叫びは、10代から20代において誰もが経験すること。
「ぼくを棄てた父さんを見返してやるんだ。エヴァに乗ってがんばっているぼくにみんなはやさしくしてほしい。」

エヴァ初号機から脱出したシンジは何かを吹っ切ったのだった。 エンディングで流れる「フライ・トゥ・ザ・ムーン」は物語中盤を過ぎるといろいろなバージョンが聞けて楽しみ。背景の白い月と水と綾波レイのゆれる足のシルエットは形而上的だ。

つづく

『新世紀エヴァンゲリオン』を一気に観る。③

2006-07-12 00:24:05 | アニメーション
見始めると、実におもしろい。
子供向けのフォーマットを取りながら、大人の鑑賞に十分に堪えるアニメーションだ。
親と子の葛藤は小津映画にも再三登場したモチーフ。
1話目から、直接ストーリーとは関係のない心理描写が満載である。

セリフのない時間だけが流れるシーンがときおり差し込まれ、静かで考えさせるイメージをつくっている。

繰り返し流れるヒグラシの鳴き声。
建設現場から聞こえるくい打ちの音。
部屋に差し込む光。
夕焼けの町。
落ちるしずく。

戦いのない静かな場面こそ、エヴァンゲリオンの取りこぼせない重要な部分。

第一話「使徒、襲来」

電車へ乗り込むシンジ。
うなだれたシンジは電車のロングシートに座ったまま、乗客だけが入れ替わり立ち替わる。
窓の風景がビル街から山並みに移り変わるにつれ、あたりは昼から夜へ。
人の落ち込み具合をこんな風にたんたんと表現したアニメがあったろうか。

あるとき、
シンジはレイにたずねる。
「なぜ、命の危険を冒してまでエヴァに乗るの」
「わたしには他に何もないもの」とつぶやくレイ。
綾波レイというミステリアスな登場人物の発端がわかるシーン。

ディティールの細かさも、ひとこと言わずにはいられない。
ミサトが愛飲する缶ビールはエビスらしきデザイン。カップラーメンはエースコックスーパーカップのようなもの。
他にもサントリーウーロン茶もどきや、ぱちもんUCCコーヒーが出てくる。
詳細に再現された電車のつり革や記事がきちんと書かれた日経新聞など、
細かなところにも、手を抜かないのが荒唐無稽の話にリアリティを生む。

かつて、監督庵野秀明のトークを聞いたことがある。
マニアックでないし屈折した風でない、びっくりするくらい普通の人だった。
余談であるが、縦いって、横折れ曲がったりする独特のタイトルレイアウトは、
最近では、資生堂TSUBAKIのCMでも使われている。
庵野監督は市川昆をリスペクトしているらしい。元々の出所は『犬神家の一族』ということか。
第九話「瞬間 心重ねて」ではエヴァ初号機、2号機が両足さかだちに埋まってるし。
このシーンも"犬神家"のリスペクト?

つづく

『新世紀エヴァンゲリオン』を一気に観る。②

2006-07-09 10:07:03 | アニメーション
親が偉大すぎると、子供は親を乗り越えるのが困難になる。

時は2015年。
エヴァ(エヴァンゲリオンの省略形)は、人類を脅かす使徒と呼ばれる謎の敵を
倒すために、ネルフという特務機関で開発された。

エヴァンゲリオン初号機搭乗員の碇(イカリ)シンジは14歳という設定。
彼が実質、この物語の主人公である。
エヴァには他に、零号機と2号機があり、それぞれ、
搭乗員は綾波レイと惣流・アスカ・ラングレーの同級生二人がいる。
エヴァとシンクロ(操縦)できるのは
限られた人間であり、チルドレンと呼ばれている。
シンジとアスカの保護者的存在が葛城ミサト、29歳、作戦指揮官。
その同僚、赤木リツコ 科学者、29歳。司令官、碇ゲンドウ、シンジの父。
その他脇役はいれど、主要メンバーは、この6人である。

ゲンドウを除く、彼らはそろいもそろって、親の期待、呪縛から逃れられない心理的に行き場を失ったアダルトチルドレンである。それはエヴァンゲリオンのテーマであるし、最大の特徴だ。

アダルトチルドレン。
確か、エヴァがつくられた1995年頃に流行ったことば。

アダルトチルドレンとは、心理学用語で大人のこころを持ったこどものこと。
子供時代に親から受け続けた抑圧がトラウマになって、大人になってからも自我を抑えてしまった人たち。エヴァの登場人物たちが戦っているのは、人類のためではない。自分のために、親に認めてもらいたいがために、親を乗り越えるために戦っているのだ。

こういう壮大なテーマがアニメとして商業ベースに乗ったことは、驚くに値するが
監督の庵野秀明と製作ガイナックスの力量によるものだろう。
最初の方こそ、子供向け戦闘アニメのカテゴリーに入るが、話が後半、特に最終話近くになると、
前半にちりばめられた心理描写の複線が生きてくる。

つづく

脇役列伝より 『暴走パニック 大激突』

2006-07-08 12:37:36 | 日本映画- 活劇・任侠
新文芸座特集 脇役列伝へ先日も行って来ました。
プログラムは『鉄砲玉の美学』と『暴走パニック 大激突』の二本立て。
今日の客層は若いデス。

深作欣治監督作品の中で見落としていた『暴走パニック 大激突』を初めて鑑賞。
この映画は東映不良アクション路線の1本で、とりたてて有名でないし、時間つぶし娯楽映画に入る。
映画は渡瀬恒彦が銀行強盗を繰り返し、逃亡、最後にカーチェイスといった内容。

途中までは、ほんとに、どってことない銀行強盗ドラマが展開される。
「これ、観たの失敗だったかなっ」て思うくらい。

ところが、
クライマックスであるカーチェイスが勃発すると、なんじゃこりゃ。
最初に川谷拓三演じる警官運転のパトカーが銀行強盗である渡瀬恒彦を追跡中に、民間の車に接触。するってえと、乗ってたおっちゃんが「当て逃げじゃ」とあわてて、パトカーを追っかける。
次にパトカーは、おばちゃんの車に激突。怒った大阪のおばちゃん、「当て逃げ、逃がすなっ」て絶叫。
それに、たまたま暴走族中継中のMHK(NHKのパクリ)がいっしょになって追いかけ、警察、民間、MHKその他車両がくんずほぐれつの大乱戦。

こうなってくると、もはや当初の銀行強盗追跡など関係なし。
暴走と激突と炎上で、なんやらわけわからんうちに映画は終了するのだった。
タイトルを見直すと『暴走パニック 大激突』。
「そのまんまや、ないかぁ!」。

映画が終わって、お客の感触はなかなか良かったですよ。
そうはいっても、深作映画なら、普通のひとには
『仁義なき戦い』シリーズ、
『県警対組織暴力』、
『資金源強奪』などを勧めます。

『暴走パニック 大激突』が気に入った人は『将軍家光の乱心 激突』も楽しめます。

『新世紀エヴァンゲリオン』を一気に観る①

2006-07-06 20:08:51 | アニメーション
シンジは何度もつぶやく。
「エヴァって何だろう。」

エヴァは自我を揺り動かす人の形をした入れ物。


ある日突然、エヴァンゲリオンTV版が見たくなった。
パチンコ「CRエヴァンゲリオン セカンドインパクト」のせいである。
パチンコ「エヴァ」第二弾は1作目を上回る出来で、のめり込むおもしろさ。
それはさておき、
会社でパチンコの話題を話していると、隣の女性(30代前半、既婚、親しい。が、なぜかいつも振り回されている。)が「アニメのエヴァンゲリオンは気持ち悪い」のひとことで一気に鑑賞欲が高まった。

テレビ版は全26話。
それに映画版が2本あって、DVDにするとちょうど10枚分。
毎週3枚づつ借りて、とりあえず、テレビ版は片付けた。

『新世紀エヴァンゲリオン』。
名前は知ってるけど、どんな話か知らない人も多いでしょう。

基本のストーリーはこんな感じ。
人類を脅かす使徒と呼ばれる謎の敵を反撃するために、エヴァンゲリオンと名づけられた人造兵器を操縦する、選ばれた少年少女たちの心の葛藤と成長を描くことに主軸が置かれている。異形の敵、使徒のグロテスクな造形美と練られたSF観は度肝を抜く。
大人の鑑賞に堪えるからこそ、10年前に一代ブームを引き起こし、今、パチンコで復活しのだ。単純な戦闘だけのロボットアニメなら、エヴァがここまで支持されることはなかった。

記憶を遡ると、
テレビ版が製作された1995年は、ノストラダムスの予言で世間が沸き立ち、世の中はオウム事件で混乱、ニートが増え始めた頃だったはず。
エヴァは当時、全国紙新聞の社会面にのり、キネ旬に取り上げられ、あの佐藤忠男氏も評価するほど話題になっていたことを思い出した。
当時はまったく、観る気しなかったのに今時分になって、なんでだろ?

見始めると、凄い話である。
1話目から引き込まれた。(というより引きずり込まれた。)

何がすごいのか。
登場する人々は、選ばれたエリートであるのに、みんな心に傷を負っている。
心理描写が実験的で、難解なところもあるのに共感できるのは、
主人公たちの親に対するこころの葛藤が普遍的テーマになっているため。
古今東西、親と子の葛藤は繰り返し映画の題材に選ばれている。
子供向けとはおもえない男女のからみを連想させる場面もある。

つづく