第16回日本レコード大賞は、1974年(昭和49年)12月31日(火)、TBSテレビ(TBS系列各局)で19:00~20:55に放送されました。
この当時は、大晦日といえば日本レコード大賞を見ながら年越しそばを食べるというのが我が家の恒例行事で、その後、紅白歌合戦を見て、ゆく年くる年を見ながら除夜の鐘の音を聞き、新年を迎えたものでした。
インターネットもなく、テレビゲームも、携帯電話もないこの時代には、日本人の多くが、大晦日は、日本レコード大賞と紅白歌合戦を見て過ごすことが恒例となっており、この年の日本レコード大賞の視聴率も45.7%という今では考えられないような高い数字となっていました。
実はこの前年、日本デビュー前のテレサは、当時ポリドール・レコードにいた舟木稔さんに連れられ、1973年の第15回日本レコード大賞の様子を生で見学していたのです。その時テレサは、「来年は私があの舞台に立つ」と言ったそうです。
デビュー前の歌手の発言としては、結構大胆だと思うかもしれませんが、テレサは日本でデビューする前にすでにアジア各国でかなりの実績がありました。
テレサにとっては、アジア各国での実績に裏打ちされた自信があったからこその「来年は私があの舞台に立つ」という言葉だったのです。
それでは、ここで日本デビュー前のテレサのアジア各国での実績について、少し触れてみたいと思います。
鈴木明著『誰も書かなかった台湾』に日本デビュー前のテレサの様子が記されていますので、ご紹介します。
『・・・鄧麗君は台湾娘の可憐さを僕に教えたといっていいだろう。僕が彼女をはじめて台北の歌庁でみた時、彼女は恐らくまだ十六、七の少女であった。そこで彼女が歌った「印尼木瓜売」(インドネシアのパパイヤ娘)を僕はまだ昨日のことのように憶えている。日本人に似た丸顔の可憐な表情で、それでもスタイルだけは日本人とまるで違う抜群のプロポーションをしており、歌のうまさは日本の新人歌手とはこれまたまるでケタ違いのうまさであった。僕は素人眼にも、彼女のような卵をスカウトしてきて日本で売り出せば大したものになるのではないかと思ったが、僕が思うよりも早く、彼女は香港やシンガポールに引っぱり出され、今では「東洋一」の人気歌手になっている。』・・・鈴木明著『誰も書かなかった台湾』サンケイ新聞社出版局発行 P105~106より
この『誰も書かなかった台湾』が発刊されたのが1974年(昭和49年)2月1日ですので、テレサが『今夜かしら明日かしら』で1974年3月1日に日本デビューするちょうど1ヶ月前になります。
この本の中で、鈴木明さんは「一番好きな歌手は鄧麗君」と述べられているだけのことはあって、なかなかの「テレサびいき」であることは間違いないと思いますが、そのことを差し引いたとしても、当時のテレサ(鄧麗君)を「東洋一」の人気歌手とまで表現されていることは見過ごせません。その「東洋一」の人気歌手という表現から、当時のテレサの人気がどれほどであったのかが察せられるというものです。
ですから、その実績の上にこれから日本デビューを果たそうとするテレサが、1973年の日本レコード大賞の様子を見て、「来年は私があの舞台に立つ」と言ったとしても、何ら不思議なことではないわけです。
その後、日本デビュー曲の「今夜かしら明日かしら」は残念ながら不発に終わりましたが、2曲目の「空港」がヒットしたことにより、何とか「東洋一」の人気歌手の面目が保たれました。
そして、1974年の第16回日本レコード大賞の新人賞を受賞し、テレサが1年前に語った「来年は私があの舞台に立つ」という言葉は本当に現実のものとなりました。
確かにテレサはすでに「東洋一」の人気歌手だったのですが、アジア各国が羨む経済大国になった日本でヒット曲を出すということは、また特別な意味のあることだったのでしょう。
台湾でも日本人の多い会場では、日本語で歌うこともあったようですが、日本へ来てからのテレサの努力もあり、見事日本語で情感たっぷりに「空港」を歌い上げ、日本人の心に響く歌を届けてくれました。
テレサの歌についてよくいわれることがあります。それは、「歌詞に込められた想いがすごく伝わってくる」というものです。
実際に日本デビュー前のテレサの歌を香港で聞いたポリドール・レコードのスカウトの方は、「こんなに歌詞に込められた想いの伝わってくる歌手には会ったことがない」というようなことを言われていました。
かなりの数の歌手を見てきたスカウトマンがそう言われるのですから、テレサがどれほど歌詞に込められた想いを伝えることを大切にしていたのかがわかります。
日本語の歌だと、歌詞の意味が充分に理解できないところもあったかもしれませんが、日本語の意味を理解しようとテレサは大変な努力を重ねていたようです。
日本レコード大賞新人賞受賞の時も、舞台上で感極まって「空港」が歌えなくなるほどでしたが、それほど彼女は感受性が豊かだったということでもあると思います。
実は、テレサが新人賞を受賞した、この第16回日本レコード大賞を、私はリアルタイムで見ていました。
この当時の出来事は、あまりはっきりと憶えているわけではありませんが、ある理由があって、第16回日本レコード大賞の特に新人賞のことは、鮮明に憶えていました。
その理由というのは、当時の私は麻生よう子さんが歌ってヒットした「逃避行」が好きで、レコードも買ってよく聴いていたのでした。
ということで、新人賞にはテレサ以外にも麻生よう子さん他4名が選ばれましたが、誰が最優秀新人賞を取るのかが気になって見ていたものですから、未だに記憶に残っているのです。
結局、最優秀新人賞には麻生よう子さんが選ばれたのですが、私の記憶には、テレサの「空港」という曲が当時の私が思っていた以上に心に残ったわけです。
この新人賞受賞の約10年後、紆余曲折を経て「つぐない」がヒットし、テレサが日本の歌謡界に復帰するまでの期間、日本ではテレサ・テンといえば「空港」という具合に、切っても切れない彼女の代表曲となりました。
私は、カラオケで歌う機会があると、テレサ・テンの「空港」はよく歌いましたが、麻生よう子さんの「逃避行」はあまり歌った記憶がありません。
私の心の中に「空港」を歌った記憶がよく残っていることにも、ある理由があります。
というのも、「空港」を歌う時、リズムの取り方が難しく、好きな曲なのにうまく歌えないという、何ともいえないもどかしさをよく感じていたからでした。
「空港」のメロディには三連符が多く使われており、比較的リズムが取りやすい箇所と取りにくい箇所があって、素人の私には大変難しかったのです。
このように、ものすごく関心があることが記憶に残るのと同時に、大変苦労したことも、強く記憶に残るようです。
最近あまり耳にしなくなりましたが、昔は、「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉をよく聞いたものです。やはり、苦労した分、自分の骨身にしみて、よく身に付くし、記憶にも残るということだと思います。
さて、話を日本レコード大賞に戻しましょう。
今朝の新聞を見ますと、今年2021年の第63回日本レコード大賞は、Da-iCEの「CITRUS」に決まった、と書いてあります。
また、最優秀新人賞は、4人組ロックバンド「マカロニえんぴつ」に決まったとのことです。
還暦をとっくに過ぎた私には、歌手名といい、曲名といい、「誰それ?そんな歌聞いたことない!」という具合で、さっぱりわかりません。
本当に時代に取り残されてゆく感じが強くなってきた昨今ですが、それはさておき、やはり私には昭和の歌が心に沁みてくるのです。
私はここ数年、一人寂しく新年を迎えることが多くなり、「♪私はひとり~何を頼って~暮せばいいの~さびしい街で~♪」という「空港」の後リリースされた「雪化粧」(作詞:山上路夫、作曲:猪俣公章)の歌詞に込められた想いにピッタリと寄り添った心境で生きてきたのですが、せめて今宵だけは、1974年の第16回日本レコード大賞の頃の気持ちに戻りたいのです。
新人賞を受賞したテレサの笑顔いっぱいの写真を見ていると、懐かしくもあり、嬉しくもあり、少し心も温かくなってきます。
だからこそ、今宵は当時のテレサと一緒にいるような錯覚を覚えたまま、新年を迎えることにしたいと思います。
そうすれば、何かしらここ数年になかったような、心温まる元旦を迎えられそうに思えるのです。
※参考資料
・鈴木明著『誰も書かなかった台湾』サンケイ新聞社出版局刊
・有田芳生著『私の家は山の向こう』文芸春秋刊
・平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』筑摩書房刊
・