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テレサ・テン(鄧麗君、Teresa Teng)の残照

『空港』

1974年7月1日、山上路夫作詞、猪俣公章作曲、森岡賢一郎編曲の『空港』がリリースされました。
日本でのデビュー曲『今夜かしら明日かしら』が思ったほどヒットせず、急遽路線変更されてレコーディングされたのが『空港』だったのです。

日本での活動の前半期には、テレサ・テンと言えば『空港』というほど、テレサ・テンの名前を日本人に知らしめたヒット曲であり、若い頃の彼女の代表曲となった歌です。売上70万枚以上を記録し、日本レコード大賞新人賞受賞曲となりました。

このときのエピソードが有田芳生著『私の家は山の向こう』に載っていますので、少し紹介させていただきます。

【…実はこのときすでに筒美京平が作曲したポップス調の曲が四作完成し、デモテープまでできていた。…桜井は佐々木と相談し、会社には黙って猪俣公章に作曲を頼みにいった。…佐々木たちは演歌を作っていた猪俣に、ポップスを書いてくれ、と注文した。…山上路夫が書いてきた詞には「雨の空港」というタイトルがついていた。コニー・フランシスのイメージで、シチュエーション(場面)はヨーロッパを想定したという。…依頼された猪俣は「珍しいことを言うねえ、あなたたちも」と言ったが、一週間で三種類の曲を完成させた。】『私の家は山の向こう』第二章 より

桜井さんは、渡辺プロダクションのテレサの担当者で、佐々木さんは、香港でテレサを見出した日本ポリドールのプロデューサーです。この二人が会社に黙って猪俣公章さんに作曲を依頼しなかったら、ヒット曲『空港』は生まれなかったわけですね。

でも、すでに筒美京平さんが作曲したポップス調の曲が四作完成していたということですから、大変大きな路線変更です。なんでも、佐々木さんが「これ(空港)でいきます。だめなら担当を降ろしてもらいます」と言ったそうで、後には引けない背水の陣で臨んだことがうかがえます。

この『空港』という歌をあらためて聞いてみると、テレサの表現力が光っています。この歌の切なさを上手く表現しています。

まず、テレサは、若い頃は特に歌詞の語尾の音を少し上げて歌うことが多いのですが、『空港』でも語尾の音を上げている箇所が結構あります。そうすることで、歌が味わい深くなっています。
それと真逆にロングトーンの部分で、少しずつ音を下げて表現している箇所があります。「手をふるあなた 見えなくなるわ~」の最後の「わ~」の音です。そうすることで、切ない気持ちをとても上手く表現しています。

次に、「どうぞ かえって」の「どうぞ」と「かえって」の間にブレスの音をあえて入れ、必死に祈っているような気持ちを上手く表現しています。

そして、最後の「わたしはひとり さってゆく」の箇所の抑揚のつけ方が特徴的です。「わたしは」の部分は、だんだん声を大きくして歌い、「ひとり」で声を張り、「さってゆく」で声を震わせて、泣いているように小さな声で歌い、大きく抑揚をつけて、ドラマチックな歌にしあげています。

21歳とは思えない、素晴らしい表現力です。

テレサが歌唱テクニック満載で歌い上げた『空港』は、見事ヒットしました。

日本での活動が本格化した記念すべき曲が『空港』で、この後、約5年間、テレサ演歌と呼ばれた多くの歌をリリースし、日本で活動したテレサでしたが、1979年に「偽名パスポート事件」を起こし、日本での活動を休止せざるを得なくなりました。

日本の前半期のテレサの活動は、『空港』のヒットで本格化し、羽田『空港』で起こした「偽名パスポート事件」で活動休止に追い込まれてしまいました。

『空港』こそは、テレサの日本での活動前半期の運命の転換期に現れた重要なキーワードだったのです。

 

※参考資料
・有田芳生著『私の家は山の向こう』文芸春秋刊
・ファンキー末吉、古川典代共著『中国語で歌おう!まるごとテレサ・テン編』アルク刊
・松山祐士編『やさしい テレサ・テン ピアノ曲集』ドレミ楽譜出版社刊

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