冬至も明けて冬のまっただ中のテヘランから久々の日記です。
演劇好きな友達に誘われて、久々にteator shahr(City Theater)に足を運んできました。
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待ち合わせの場所に着くと、演劇ファンの彼女は黒いケープとスカーフに黒いブーツというシックな出で立ち、周囲もニートなおしゃれさんで溢れていて、どうやらテヘランの若者のあいだでとても評判を呼んだ公演のようだ。演目はルーマニア生まれのフランスの劇作家ウージェーヌ(orユージン)・イヨネスコ Eugène Ionesco(1912-1994)の「犀」で、舞台が始まってみると、予想外の展開の風刺劇に引き込まれてしまった。
カフェで講義中の論理学者(左) / 練習風景から(右)
舞台は日曜日のパリの街角、近所のカフェでたわいない雑談に花を咲かせる人々。半ばアル中のブランジェに酒を断つよう勧めつつバーに誘うジャン、全ての存在が猫に行きつくという怪しげな論理学談義に夢中な二人の男、ペットの猫を抱いて街中の人に嬌声で愛想を振りまくマダム、デッサン中の画学生、美しく気だてのよいデイジーetc…街中の人たちの話し声が溢れてもう殆ど何を話しているのか解らないほどのノイズになった時、突如、街の遠くをけたたましく一頭の犀が走り過ぎる。呆気にとられつつも、気を取り直し、半信半疑で再びお喋りに興じる人々の前をまた別の犀が駆け抜ける。パリの街で犀が野放しになっているなんて!と驚愕する人々、最初の犀は一本角だったが次の犀は二本角だったから原産地が異なるのじゃと長々と講義する論理学者、駆け抜ける犀のデッサンに夢中な画学生、愛猫が犀に踏みつぶされてしまったと涙に震えるマダム、マダムの愛犬のお葬式に夢中になる街の人々… 酔いつぶれたブランジェだけが無関心に平静を保っているのだ… 翌日になって、ブランジェとデイジーの職場でも犀のニュースで持ちきりなのだが、熱血漢の同僚が絶対に信じない!犀を見た奴らは精神病だ!と熱弁をふるうなか、皆の視線は職場の入り口を徘徊する一頭の犀に釘付けになっている。すると、病気で寝込んでしまった主人の欠勤を知らせに来た一人の女性が、あの犀は私の主人です!と行って通りに飛び出して行く。 … 何が起こったのか信じられないまま避難する人々、そしてパリの街はひっそりと夜に包まれる。
夜更けの裏通り、アル中のブランジェは友人のジャンを訪ねて彼のアパルトマンのドアを叩く。ジャンはひどい高熱にうなされ、病院に行こうというブランジェの心配にも耳を貸さず、熱に浮かされつつ自分の不甲斐なさや人間の愚かさについて胸の内を語るうちに次第に攻撃的になっていき、自然を見ろよ!人間と違って自然は崇高だ、人間は自然に帰るべきだ!僕は野生に帰ったような気がする!などと叫びつつ、ブランジェに突進していく。悲しみと恐れに震えるブランジェ。ジャンもはっとしてたじろぎ、ごめんよ…とつぶやくが、浴室に駆け込み、次の瞬間には巨大な一本の角が浴室のドアを突き破る。驚いてアパルトマンを後にするブランジェ、裏通りに出ると、彼は更に目を疑う。街の人々が一人また一人と犀になって街を彷徨っているのだ。翌日、ブランジェは自宅のアパルトマンで悪夢から覚める。
パリ中の人々が次々と犀になっていく中、ブランジェと友人達はブランジェのアパルトマンで今後のパリの行く先を案じつつ、窓から犀に溢れた街中を眺め震えている。だがブランジェの必死の説得も虚しく、友人達は一人また一人と彼の許を去って犀達の群れに入っていく。最後まで理性を保っていたドゥダールも憧れのデイジーへの片恋に破れ、失意のうちに街に飛び出して犀になってしまう。ブランジェから愛を打ち明けられたデイジーはいっとき愛の目覚めに声を震わせるが、やがて犀だらけのパリで暮らして行く不安とおののきに震えていき、半狂乱のうちに街に飛び出し犀になってしまう。パリ中で最後にたった一人残ったのはアル中のブランジェ。何故愛するデイジーを引き留められなかったのか、孤独に耐えかねて何度も鏡を見ては、僕にも角が生えてくればいいのに!と息も絶え絶えなブランジェは最後にこう叫ぶ。犀たちが仲間に溢れてどんなに素晴らしくてもいい、一人ぼっちでもいい、僕は僕なんだ!ありのままの僕で人間なんだ!

理性を失っていく美しいデイジー(Atene Faqih Nasiri)と、懸命に引き留めるブランジェ(Mehdi Hashemi)
イヨネスコはベケットに並ぶ20世紀の劇作家として名高く、人間社会の不条理を描いた数々の風刺劇を発表しているそうなのだが、友人の説明を受けるまで実は知識がなくてちょっと面目がない。後でインターネットを覗いてみたら、日本にもイヨネスコ劇団が来日して別の風刺劇「授業」の上演があったようだけれど、ベケットに比べたらそれほど知られていないのではないだろうか(?) 「犀」はイヨネスコがナチス台頭時代のパリをモデルに書いた戯曲だと言われているそうだが、なんだか今の時代の世界中のなんともいえない薄暗い雰囲気も映しているようで、舞台はちょっとした切迫感に包まれていた。私のようにこの作品を知らなかった人はぜひ読んで欲しいと思う。通りすがりに話した観客の人達のなかでイヨネスコ劇団の本場の公演を見たことがあるという人がいて、今回の舞台はそれに比べると幼稚なつくりだったと酷評も述べていた。でもこんな戯曲がロングランで上演され、若者の話題を呼んでいるところは、きっと、文学の延長に演劇や風刺劇の長く豊かな伝統があり、ブレヒトもチェーホフもベケットもイヨネスコもほぼ当たり前の一般教養になっているイランの文化事情によるものなのだろう。歴史的にイランの演劇界はロシアやヨーロッパの直接の影響を受けてきたし、革命以降、多くの知識人や学生たちが欧米に流出したり、若い人たちが常に衛星放送やインターネットをチェックしている関係で、現在もかなりアップトゥーデイトに欧米の演劇事情が伝わってきているような印象がある。去年のファジュル演劇祭でも幾つかとても目を引くいかにも新しい作品が欧米からの翻訳物として上演されていて、そんな時は自分がテヘランにいるのを忘れてしまったり、テヘランとヨーロッパの文化的な距離がそんなに隔たっていないことを感じたりする。たとえば「演劇」というジャンルを通して見た場合のことなのだけれど。
映画は以前から好きなほうだったけれど、演劇についてはテヘランに来てから段々と面白くなってきたように思う。どちらもなかなか時間がなくて、そんなに数が見れないのが残念だけれど、時々演劇好きな友達に混じってteator shahr(City Theater)などに足を運んだり、演劇談義に耳を傾けたりするのは楽しい。もうすぐファジュル演劇祭も始まるし、また近いうちに演劇事情についても何かレポートしたいと思います。
演劇好きな友達に誘われて、久々にteator shahr(City Theater)に足を運んできました。
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待ち合わせの場所に着くと、演劇ファンの彼女は黒いケープとスカーフに黒いブーツというシックな出で立ち、周囲もニートなおしゃれさんで溢れていて、どうやらテヘランの若者のあいだでとても評判を呼んだ公演のようだ。演目はルーマニア生まれのフランスの劇作家ウージェーヌ(orユージン)・イヨネスコ Eugène Ionesco(1912-1994)の「犀」で、舞台が始まってみると、予想外の展開の風刺劇に引き込まれてしまった。


カフェで講義中の論理学者(左) / 練習風景から(右)
舞台は日曜日のパリの街角、近所のカフェでたわいない雑談に花を咲かせる人々。半ばアル中のブランジェに酒を断つよう勧めつつバーに誘うジャン、全ての存在が猫に行きつくという怪しげな論理学談義に夢中な二人の男、ペットの猫を抱いて街中の人に嬌声で愛想を振りまくマダム、デッサン中の画学生、美しく気だてのよいデイジーetc…街中の人たちの話し声が溢れてもう殆ど何を話しているのか解らないほどのノイズになった時、突如、街の遠くをけたたましく一頭の犀が走り過ぎる。呆気にとられつつも、気を取り直し、半信半疑で再びお喋りに興じる人々の前をまた別の犀が駆け抜ける。パリの街で犀が野放しになっているなんて!と驚愕する人々、最初の犀は一本角だったが次の犀は二本角だったから原産地が異なるのじゃと長々と講義する論理学者、駆け抜ける犀のデッサンに夢中な画学生、愛猫が犀に踏みつぶされてしまったと涙に震えるマダム、マダムの愛犬のお葬式に夢中になる街の人々… 酔いつぶれたブランジェだけが無関心に平静を保っているのだ… 翌日になって、ブランジェとデイジーの職場でも犀のニュースで持ちきりなのだが、熱血漢の同僚が絶対に信じない!犀を見た奴らは精神病だ!と熱弁をふるうなか、皆の視線は職場の入り口を徘徊する一頭の犀に釘付けになっている。すると、病気で寝込んでしまった主人の欠勤を知らせに来た一人の女性が、あの犀は私の主人です!と行って通りに飛び出して行く。 … 何が起こったのか信じられないまま避難する人々、そしてパリの街はひっそりと夜に包まれる。
夜更けの裏通り、アル中のブランジェは友人のジャンを訪ねて彼のアパルトマンのドアを叩く。ジャンはひどい高熱にうなされ、病院に行こうというブランジェの心配にも耳を貸さず、熱に浮かされつつ自分の不甲斐なさや人間の愚かさについて胸の内を語るうちに次第に攻撃的になっていき、自然を見ろよ!人間と違って自然は崇高だ、人間は自然に帰るべきだ!僕は野生に帰ったような気がする!などと叫びつつ、ブランジェに突進していく。悲しみと恐れに震えるブランジェ。ジャンもはっとしてたじろぎ、ごめんよ…とつぶやくが、浴室に駆け込み、次の瞬間には巨大な一本の角が浴室のドアを突き破る。驚いてアパルトマンを後にするブランジェ、裏通りに出ると、彼は更に目を疑う。街の人々が一人また一人と犀になって街を彷徨っているのだ。翌日、ブランジェは自宅のアパルトマンで悪夢から覚める。
パリ中の人々が次々と犀になっていく中、ブランジェと友人達はブランジェのアパルトマンで今後のパリの行く先を案じつつ、窓から犀に溢れた街中を眺め震えている。だがブランジェの必死の説得も虚しく、友人達は一人また一人と彼の許を去って犀達の群れに入っていく。最後まで理性を保っていたドゥダールも憧れのデイジーへの片恋に破れ、失意のうちに街に飛び出して犀になってしまう。ブランジェから愛を打ち明けられたデイジーはいっとき愛の目覚めに声を震わせるが、やがて犀だらけのパリで暮らして行く不安とおののきに震えていき、半狂乱のうちに街に飛び出し犀になってしまう。パリ中で最後にたった一人残ったのはアル中のブランジェ。何故愛するデイジーを引き留められなかったのか、孤独に耐えかねて何度も鏡を見ては、僕にも角が生えてくればいいのに!と息も絶え絶えなブランジェは最後にこう叫ぶ。犀たちが仲間に溢れてどんなに素晴らしくてもいい、一人ぼっちでもいい、僕は僕なんだ!ありのままの僕で人間なんだ!

理性を失っていく美しいデイジー(Atene Faqih Nasiri)と、懸命に引き留めるブランジェ(Mehdi Hashemi)
イヨネスコはベケットに並ぶ20世紀の劇作家として名高く、人間社会の不条理を描いた数々の風刺劇を発表しているそうなのだが、友人の説明を受けるまで実は知識がなくてちょっと面目がない。後でインターネットを覗いてみたら、日本にもイヨネスコ劇団が来日して別の風刺劇「授業」の上演があったようだけれど、ベケットに比べたらそれほど知られていないのではないだろうか(?) 「犀」はイヨネスコがナチス台頭時代のパリをモデルに書いた戯曲だと言われているそうだが、なんだか今の時代の世界中のなんともいえない薄暗い雰囲気も映しているようで、舞台はちょっとした切迫感に包まれていた。私のようにこの作品を知らなかった人はぜひ読んで欲しいと思う。通りすがりに話した観客の人達のなかでイヨネスコ劇団の本場の公演を見たことがあるという人がいて、今回の舞台はそれに比べると幼稚なつくりだったと酷評も述べていた。でもこんな戯曲がロングランで上演され、若者の話題を呼んでいるところは、きっと、文学の延長に演劇や風刺劇の長く豊かな伝統があり、ブレヒトもチェーホフもベケットもイヨネスコもほぼ当たり前の一般教養になっているイランの文化事情によるものなのだろう。歴史的にイランの演劇界はロシアやヨーロッパの直接の影響を受けてきたし、革命以降、多くの知識人や学生たちが欧米に流出したり、若い人たちが常に衛星放送やインターネットをチェックしている関係で、現在もかなりアップトゥーデイトに欧米の演劇事情が伝わってきているような印象がある。去年のファジュル演劇祭でも幾つかとても目を引くいかにも新しい作品が欧米からの翻訳物として上演されていて、そんな時は自分がテヘランにいるのを忘れてしまったり、テヘランとヨーロッパの文化的な距離がそんなに隔たっていないことを感じたりする。たとえば「演劇」というジャンルを通して見た場合のことなのだけれど。
映画は以前から好きなほうだったけれど、演劇についてはテヘランに来てから段々と面白くなってきたように思う。どちらもなかなか時間がなくて、そんなに数が見れないのが残念だけれど、時々演劇好きな友達に混じってteator shahr(City Theater)などに足を運んだり、演劇談義に耳を傾けたりするのは楽しい。もうすぐファジュル演劇祭も始まるし、また近いうちに演劇事情についても何かレポートしたいと思います。