テヘラン日記

日常と会話 ペルシア/イラン

(★コピーライトは著者に帰属します)

Tomoko Shimoyama

The 2nd International Farabi Award

2009-02-28 | テヘラン日記

今日のテヘラン日記はちょっとアカデミックな話題で、昨年末の12月27日にテヘランで開催された第2回国際ファーラービー賞(The 2nd International Farabi Award)についてのレポートです。

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これはイラン文部省主催、UNESCO、ISESCOの協賛で去年から始まった、人文学の各分野での優れた研究者に与えられる賞で、例えばノーベル賞のイラン版、人文学版といえるだろうか。国内部門は人文学の全分野、海外部門はイラン学、イスラーム学の2つの分野を対象としていて、2回目の今年は日本から、故井筒俊彦先生と井本英一先生のお二人がそれぞれ、過去の優れた先駆的研究者を記念して与えられる故人の部門と、海外の優れた研究者に与えられる海外選抜賞の部門で受賞し、日本のイラン学、イスラーム学にとって喜ばしいニュースとなった。

言語哲学、イスラーム思想史、東洋思想史といった分野で活躍した井筒俊彦先生の多大な業績は日本でも広く知られているけれども、井筒先生が革命前のイランで教鞭をとっていたことは、中東研究者以外にはあまり知られていないのではないだろうか。井筒先生がイランを訪れるきっかけとなったのは、カナダのマックギル大学時代の同僚だったイラン人研究者とのイスラーム哲学やペルシア神秘思想についての議論や文献講読から、思想史の分野でイラン文化圏やペルシア語文化圏の魅力と出会ったためだったといわれる。井筒先生の扱った文献の多くは哲学の分野だからアラビア語なのだけれども、それらの著作の多くがペルシア語話者であるイラン人哲学者たちの手によるものだったから、彼らの世界観を知るには、イランで暮らしたり、イラン人の研究者たちと交際したり議論したりした毎日がきっととても面白く感じられたのではないだろうか。そんな井筒先生の見たイラン的イスラーム(シーア派や神秘主義)については、例えば、岩波文庫の『イスラーム文化―その根底にあるもの―』の最後の章の「内面への道」に解りやすく紹介されている。

井本英一先生は、特に飛鳥時代・奈良時代の日本文化にみられるオリエントや特にイランの文化習俗の影響について、博覧強記と驚かずにはいられない幅広い比較民俗学の見識でもって長年にわたって論じて来られた研究者で、『飛鳥とペルシア』『習俗の始原をたずねて』『神話と民俗のかたち』などの多数の著作がある。例えば、東大寺二月堂のお水取りにみられるイランの古い冬至の祭り(シャベ・チェッレ)の影響や、唐招提寺の建設に大きな役割を果たした建築家の思託は中世ペルシア語シータク(現代ペルシア語ではシェイダー:恋に狂ったという意味で、技芸に心酔した腕の良い建築家がこう呼ばれた)の音写でイラン系移民である可能性が高いこと、弥勒菩薩の遠い起源が古代イランのミトラ神にあること、飛鳥の酒船石遺跡がゾロアスター教にならって遺体を浄める儀式を行う装置であった可能性etc… 井本先生の著作を読むと、古代日本に入ってきたと考えられる遠いオリエントとりわけイランの文化習俗の多様さや文化の伝播という現象の不思議さについて驚嘆のため息が出てしまう。なかでも、長くサンスクリット語起源と考えられてきた盂蘭盆の語源が中世ペルシア語のウラワーン(義とせられた者の意)で、盂蘭盆(お盆)は「アルタワーン・フラワシ(義とせられた者の霊魂)」と呼ばれた古代イランの1月に人々が祖先を供養した習俗が源流にあるという説は、今では日本の学界での定説となっている。

ちなみに井本先生の『飛鳥とペルシア』は他のいくつかの論文と一緒にペルシア語に翻訳され、現在、出版中で、テヘランでも出版を楽しみにしている人が大勢いるようだ。

ちなみに日本以外の海外の研究者では、去年のペルシア文学研究者のFouche やPeter Avery、 歴史学者Richard Fryeなどに続いて、今年はファーラービー研究者のGalstoneやイスラーム神秘主義研究者 ChitikやErnst、シーア派研究者のHamid Algerなどが受賞している。



さて、Farabi Awardのタイトルとなったファーラービーとは、中世ラテン語ではアルファラビウスまたはアヴェンナサルと呼ばれた10世紀の哲学者で、アリストテレスに次ぐ第2の師とも称され、論理学、政治学、言語哲学、神学、数学、天文学、医学、音楽etc…の広い領域にわたって著作を残している。プラトンとアリストテレスの総合を試みて後の神秘主義思想に多大な影響を与え、特にアリストテレスの『オルガノン』への注釈はイブン・スィーナー(アヴィセンナ)が参照したことでも知られる重要な著作といわれているほか、著名な『有徳都市の住人がもつべき諸見解の原理』では、ギリシア及びイスラームの学問的・倫理的価値観に立脚したユートピア都市を描いた。また世界初の(?)譜面を考案したことでも知られているそうで、Farabi Awardは彼の豊かな創造力と広い学際的な活躍にちなんで、国内外での人文学全体の発展を願って名付けられたとのこと。授賞式での様々な関係者からのスピーチでは、これからの時代における人文学の更なる重要性や、学際的研究、人文学の統合、人文学における精神性といった様々なニーズについても語られ、どれもなかなか聞き応えがあって、人文学への支援として非常に熱の入ったプログラムだという印象を受ける。

イスラーム学、またはイスラーム研究については、日本でもここ数十年ほどの間に段々と認知度が高くなってきているけれど、イラン学というのは、ほとんどの人にとってなかなかピンと来ない特殊な分野に思えるはずだから、また機会を改めて紹介してみたい。でも例えば井筒先生や井本先生の著書を読んでみると、その広大な広がりがきっとほんの少しは想像できると思う。イランという国は、例えばバックパックで旅行するにしても、ただ素通りしてしまうのが惜しくなってしまうくらい様々な文化的な魅力に溢れた国だから、数冊の良書を持って旅行できたら、きっともっと楽しくなるはずだ。ちなみに、私もこの機会に久しぶりにお二人の先生の本をめくっているうちに、学問のロマンなのか、遙かな旅に出ているような不思議な錯覚に陥ってしまったのだった。


パリの街を行き交う犀 (イヨネスコの風刺劇)

2008-12-30 | アート
冬至も明けて冬のまっただ中のテヘランから久々の日記です。
演劇好きな友達に誘われて、久々にteator shahr(City Theater)に足を運んできました。

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待ち合わせの場所に着くと、演劇ファンの彼女は黒いケープとスカーフに黒いブーツというシックな出で立ち、周囲もニートなおしゃれさんで溢れていて、どうやらテヘランの若者のあいだでとても評判を呼んだ公演のようだ。演目はルーマニア生まれのフランスの劇作家ウージェーヌ(orユージン)・イヨネスコ Eugène Ionesco(1912-1994)の「犀」で、舞台が始まってみると、予想外の展開の風刺劇に引き込まれてしまった。


   

カフェで講義中の論理学者(左) / 練習風景から(右)


舞台は日曜日のパリの街角、近所のカフェでたわいない雑談に花を咲かせる人々。半ばアル中のブランジェに酒を断つよう勧めつつバーに誘うジャン、全ての存在が猫に行きつくという怪しげな論理学談義に夢中な二人の男、ペットの猫を抱いて街中の人に嬌声で愛想を振りまくマダム、デッサン中の画学生、美しく気だてのよいデイジーetc…街中の人たちの話し声が溢れてもう殆ど何を話しているのか解らないほどのノイズになった時、突如、街の遠くをけたたましく一頭の犀が走り過ぎる。呆気にとられつつも、気を取り直し、半信半疑で再びお喋りに興じる人々の前をまた別の犀が駆け抜ける。パリの街で犀が野放しになっているなんて!と驚愕する人々、最初の犀は一本角だったが次の犀は二本角だったから原産地が異なるのじゃと長々と講義する論理学者、駆け抜ける犀のデッサンに夢中な画学生、愛猫が犀に踏みつぶされてしまったと涙に震えるマダム、マダムの愛犬のお葬式に夢中になる街の人々… 酔いつぶれたブランジェだけが無関心に平静を保っているのだ… 翌日になって、ブランジェとデイジーの職場でも犀のニュースで持ちきりなのだが、熱血漢の同僚が絶対に信じない!犀を見た奴らは精神病だ!と熱弁をふるうなか、皆の視線は職場の入り口を徘徊する一頭の犀に釘付けになっている。すると、病気で寝込んでしまった主人の欠勤を知らせに来た一人の女性が、あの犀は私の主人です!と行って通りに飛び出して行く。 … 何が起こったのか信じられないまま避難する人々、そしてパリの街はひっそりと夜に包まれる。

夜更けの裏通り、アル中のブランジェは友人のジャンを訪ねて彼のアパルトマンのドアを叩く。ジャンはひどい高熱にうなされ、病院に行こうというブランジェの心配にも耳を貸さず、熱に浮かされつつ自分の不甲斐なさや人間の愚かさについて胸の内を語るうちに次第に攻撃的になっていき、自然を見ろよ!人間と違って自然は崇高だ、人間は自然に帰るべきだ!僕は野生に帰ったような気がする!などと叫びつつ、ブランジェに突進していく。悲しみと恐れに震えるブランジェ。ジャンもはっとしてたじろぎ、ごめんよ…とつぶやくが、浴室に駆け込み、次の瞬間には巨大な一本の角が浴室のドアを突き破る。驚いてアパルトマンを後にするブランジェ、裏通りに出ると、彼は更に目を疑う。街の人々が一人また一人と犀になって街を彷徨っているのだ。翌日、ブランジェは自宅のアパルトマンで悪夢から覚める。

パリ中の人々が次々と犀になっていく中、ブランジェと友人達はブランジェのアパルトマンで今後のパリの行く先を案じつつ、窓から犀に溢れた街中を眺め震えている。だがブランジェの必死の説得も虚しく、友人達は一人また一人と彼の許を去って犀達の群れに入っていく。最後まで理性を保っていたドゥダールも憧れのデイジーへの片恋に破れ、失意のうちに街に飛び出して犀になってしまう。ブランジェから愛を打ち明けられたデイジーはいっとき愛の目覚めに声を震わせるが、やがて犀だらけのパリで暮らして行く不安とおののきに震えていき、半狂乱のうちに街に飛び出し犀になってしまう。パリ中で最後にたった一人残ったのはアル中のブランジェ。何故愛するデイジーを引き留められなかったのか、孤独に耐えかねて何度も鏡を見ては、僕にも角が生えてくればいいのに!と息も絶え絶えなブランジェは最後にこう叫ぶ。犀たちが仲間に溢れてどんなに素晴らしくてもいい、一人ぼっちでもいい、僕は僕なんだ!ありのままの僕で人間なんだ!




理性を失っていく美しいデイジー(Atene Faqih Nasiri)と、懸命に引き留めるブランジェ(Mehdi Hashemi) 


イヨネスコはベケットに並ぶ20世紀の劇作家として名高く、人間社会の不条理を描いた数々の風刺劇を発表しているそうなのだが、友人の説明を受けるまで実は知識がなくてちょっと面目がない。後でインターネットを覗いてみたら、日本にもイヨネスコ劇団が来日して別の風刺劇「授業」の上演があったようだけれど、ベケットに比べたらそれほど知られていないのではないだろうか(?) 「犀」はイヨネスコがナチス台頭時代のパリをモデルに書いた戯曲だと言われているそうだが、なんだか今の時代の世界中のなんともいえない薄暗い雰囲気も映しているようで、舞台はちょっとした切迫感に包まれていた。私のようにこの作品を知らなかった人はぜひ読んで欲しいと思う。通りすがりに話した観客の人達のなかでイヨネスコ劇団の本場の公演を見たことがあるという人がいて、今回の舞台はそれに比べると幼稚なつくりだったと酷評も述べていた。でもこんな戯曲がロングランで上演され、若者の話題を呼んでいるところは、きっと、文学の延長に演劇や風刺劇の長く豊かな伝統があり、ブレヒトもチェーホフもベケットもイヨネスコもほぼ当たり前の一般教養になっているイランの文化事情によるものなのだろう。歴史的にイランの演劇界はロシアやヨーロッパの直接の影響を受けてきたし、革命以降、多くの知識人や学生たちが欧米に流出したり、若い人たちが常に衛星放送やインターネットをチェックしている関係で、現在もかなりアップトゥーデイトに欧米の演劇事情が伝わってきているような印象がある。去年のファジュル演劇祭でも幾つかとても目を引くいかにも新しい作品が欧米からの翻訳物として上演されていて、そんな時は自分がテヘランにいるのを忘れてしまったり、テヘランとヨーロッパの文化的な距離がそんなに隔たっていないことを感じたりする。たとえば「演劇」というジャンルを通して見た場合のことなのだけれど。

映画は以前から好きなほうだったけれど、演劇についてはテヘランに来てから段々と面白くなってきたように思う。どちらもなかなか時間がなくて、そんなに数が見れないのが残念だけれど、時々演劇好きな友達に混じってteator shahr(City Theater)などに足を運んだり、演劇談義に耳を傾けたりするのは楽しい。もうすぐファジュル演劇祭も始まるし、また近いうちに演劇事情についても何かレポートしたいと思います。


久しぶりの雨 イランの水の話

2008-11-07 | テヘラン日記
11月に入ってテヘランもすっかり冷え込んできて、北部にのぞむアルボルズ山脈には早くも雪が積もったらしく、テヘランの街中でもときおり雪山からの冷たい木枯らしが吹いたり、雨が降ったりしています。

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雨!そう雨!たぶん春からずっと、もう半年近くは降っていなかったんじゃないかと思うくらい、本当に久しぶりの雨!先週くらいから夜中に時々降っていたらしく、雨の気配は感じていたのだけれど、おとといの夜、勢いよく窓を打つ雨音にすっかり嬉しくなってしまったのだった。11月はイランの暦ではアーバーン月(10/22~11/20)直訳すると「水たちの月」といって、水、なかでも水の女神に捧げられた月で、久々の雨はまさに暦どおりということになりそうだ。

 イラン古来の水の女神は、星々の中に住んでいて、星から地上の川に流れ出す聖なる川とそこから発する世界中の水を司る、それは美しい女神として描かれている。ゾロアスター教聖典の中のその描写は、ほっそりとした体に豊かな胸をもち、金糸で刺繍したかわうその毛皮のマント、星々をちりばめた黄金細工の冠、黄金の首飾りと耳飾り、黄金の靴という豪華な出で立ちで、風、雨、雲、みぞれ(または雪)という4頭の馬に引かれた戦車を駆って悪を打ち砕き、大地に恵みをもたらす、高貴な王女のような風格を湛えている。豊かな胸はもちろんのこと、彼女から注がれる豊かな水が大地を潤すという豊穣のシンボルである。こんな気高いイメージからか、アルメニアの伝説では、彼女は悪と戦うゾロアスター教の唯一神アフラマズダの娘とされているそうだ。

 乾燥したイランの大地では、水はまさに天からの尊い宝物といえる。カスピ海南岸や、ペルシア湾岸のフーゼスタン地方など降水量の多いわずかな地域を除けば、イランの多くの地域で農業や生活水を支えているのは、冬のあいだに北部のアルボルズ山脈と西部のザグロス山脈に積もった雪が春になって溶けて流れ出す雪解け水だ。この2つの山脈からの雪解け水は少しずつ集まって川になってイラン高原内部へと流れ出すのと同時に、豊かな地下水脈となって、目に見えないところでひっそりと大地を潤す。この地下水脈を掘り当てて地表まで運ぶ水路が何千年もの昔から続く古来の灌漑技法カナートで、一面の荒野の中でカナートのある一帯だけ幻のように突如として豊かな緑で覆われてしまう、まさに砂漠をオアシスに変える魔法のような技術なのだ。そして、大地の奥深く脈々と流れる地下水は所々で沸き水(チェシメ cheshme)となって顔をのぞかせる。カナートもチェシメも、イランを旅行したらきっとどこかで遭遇するイランらしい風景のひとつで、乾いた日射しの中、やっと見つけたチェシメの側で、冷たい雪解け水が砂石の上をきらきらと光を放って流れていくのを見ていると、黄金にまばゆい高貴な水の女神の描写にも自然とうなずけてしまう。


   

マーハーンのペルシア庭園「王子の庭」(Baghe Shahzadeh) 一面の荒野に緑の園が突然現れる、まさに魔法のオアシス


 日本でもおいしい沸き水があると聞けば、わざわざ遠くから汲みに行きたくなってしまうのと同じように、イラン人の人たちもチェシメには深い思い入れをもっている。例えば農村部なら、お休みの日に家族が集まると、鍋一杯にお昼ごはんを詰め込んで、お茶を沸かすサモワールや、食後の水煙草、絨毯、日よけのテントなどなど、ピクニック道具一式を持参して、チェシメやその側にある果樹園(バーグ)にピクニックに行こう!ということになる。夏なら冷たい水でスイカを冷やしたり、子供たちが水遊びをしたり、遊び方は日本とそんなに変わらないかもしれないけれど、時にはペルシア絨毯の製法工程のひとつとして、織り上がったばかりの絨毯をじゃぶじゃぶ洗っている光景も見られる。また都市部なら、有名なカーシャーンのフィンの庭園のように天然のチェシメを使ってデザインしたペルシア庭園や、沸き水をモスクの一角に引いて礼拝前の浄めに使う設計など、伝統建築に取り入れられたチェシメの装い新たな魅力も見逃せない。最も美しいペルシア庭園のひとつに数えられるフィンの庭園では、チェシメに硬貨を投げ入れるたび、水の深くから金魚がゆらゆらと泳いで上がってくる仕掛けになっていて、訪れる人はみな願いを込めて硬貨を投げ入れる。(ちなみに投げ入れられた硬貨は後でちゃんと回収して寄付されるから、チェシメが硬貨で埋まってしまう心配はないのだ。)また、これはテレビのドキュメンタリーで見た光景だけれど、どこだったか、コルデスターン地方の小さな村のモスクでは、近所の老人達がチェシメから引いたいかにも涼しげな冷たい水路に足を浸して、のんびりと午後の日光浴を楽しんでいた。

貴重なだけに様々な工夫を凝らして水を愛でる、水に対するイラン人のこだわりは、他にも色々なかたちで生活のなかに根付いている。(例えば、昨日立ち寄った園芸店で見つけたのは、4羽の鳩が仲良く一緒に水を飲めるようにデザインされた伝統的な陶器の壺。写真がないのが残念だけれど、大きな壺の四方に丸く窓を開けて、鳩が首をつっこんで水を飲めるようになっている。色もトルコ石のブルーで、鳩専用にこんな可愛らしい水場を作ってあげるこだわりはなかなかのものだ。)

 ちなみに、アルボルズ山脈のふもとにあるテヘランでも、春先になると、街路に沿って張り巡らされた街中の用水路が雪解け水で溢れて、凄い勢いで流れて行く様子が目にできる。渋滞の激しい大都市の街路をごうごうと流れていく雪解け水は、春の風物詩というにはちょっと味気ないけれど、道路脇に車を止めて豪華に天然の雪解け水でじゃぶじゃぶ車を洗っているおじさんたち(!)や、クラクションや街の喧噪に混じって聞こえてくる水音(!)は、それはそれでテヘランらしい味わいがあるといえるかもしれない。それに、この季節になると、テヘランの水道水は手が切れそうなくらい冷たいのだ。アルボルズ山脈の山水を引いたテヘランの水道水は、石灰分が多く硬度が高いことを除けば(※硬水になれない日本人は、慣れないうちは煮沸して石灰分をとばしたほうがお腹を壊さない)、とても清潔だし、味もなかなかで、特に雪解けの季節は冷たくておいしい。




テヘラン北部にのぞむ雪のアルボルズ山脈


 さあこんなわけで、イランの山脈地帯に雪が降り始めるアーバーン月は、春になってカナートやチェシメを通してイランの大地を潤す雪解け水が最初に空から舞い降りてくる季節で、まさに天上から水を司る水の女神に見守られた「水の月」といえそうだ。ちなみに日本の旧暦で「水の月」(水無月)は、田んぼに水を注ぎ入れる田植えの季節のことだから、同じ「水の月」といっても、暦のなかにその国その国の文化の違いが表れていて(当たり前のようだけれど)なかなか面白くないだろうか? 私のアパートの窓からも北側に遠く、早くも真っ白に雪の積もったアルボルズ山脈の一端が見渡せるのだけれど、こうして見ると、なんだか巨大な水源のように思えてくる。イランの神話では、水の女神が司る聖なる川は、世界の中心にある険しいハーラ山から発して、世界を取り巻く大洋ウォルカシャ海に注ぎ込むというから、神話の世界観にはちゃんと理由があるともいえるかもしれない。

さてさて、イランに旅行したら、イランの水にまつわるこんなあれこれを思い浮かべてみると、きっとコップ1杯の水ももっとおいしく感じられるかもしれない(!)


テヘラン・ミュージック・エキスポ

2008-03-01 | テヘラン日記
だいぶ遅くなってしまったけれど、ファジュル音楽祭に続いて1月のテヘランを彩っていた、テヘラン・ミュージック・エキスポの話題です。

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イランの伝統音楽(左) アルメニアからの招待グループ(右)


「テヘラン・ミュージック・エキスポ」(The First Tehran Expo for Music and Phonographic Production)は、イランの音楽シーンや音楽ビジネスの活性化を図って、イラン音楽協会の主催で今年初めて開催された、画期的な催しだ。というのは、イスラーム世界では長い歴史を通じて、音楽は他の芸術と比べても制限されることが多く、ひっそりと続けられてきた分野で、特にポップスやロック etc…などの西欧的な音楽については、イランでは公には今でも一定の制限があるためである。

でも、そんななかで、音楽関係者をはじめとする文化人のあいだでは、「音楽はその国の文化を反映し、また育てるもの」という意識があって、イラン独自の音楽文化を広く根付かせようという努力がじわじわとなされている。実際には、海外から裏でどんどん流入してくるありとあらゆるジャンルのポップスが若者のサブカルチャーとして年々勢いを増している状況があって、イラン独自の音楽文化への取り組みというのは、イラン文化の現代的な意味での再生、アイデンティティへの回帰を図る、近年の広い文化的潮流の一端といえるだろう。「テヘラン・ミュージック・エキスポ」はこうした理念にもとづき、イランの音楽ビジネスの健全な活性化をめざして、各種音楽協会、レーベル、音楽関係の出版社、楽器店、音楽学校、音響会社 etc… が集合した見本市で、1週間のあいだ、各種のセミナーやワークショップ、コンサートも行われて、音楽好きな人たちの間でとても反響を呼んでいた。

そのなかで、特に音楽好きな人たちが詰めかけた話題のコンサートは、ペルシア湾岸の港町バンダル・アッバースで活動するグループ「ジャフレ」と、”ペルシア語のシャンソン歌手”とじわじわ人気を集めているソヘイル氏が、南のバンダル・アッバース方言で歌ったセッションだった。


  

バンダル・アッバースのグループ「ジャフレ」(左) どことなくラテンめいたソヘイル氏(右)


「ジャフレ」は、バンダル・アッバース地方の方言で壺という意味で、素焼きの壺(ペルシア語ではクーゼ)を叩いて打楽器のように用いるもの。グループ「ジャフレ」は、この素焼きの壺ジャフレとギター、バンダル・アッバース方言の訛りの強い歌声を上手く組み合わせて、郷土色の強い、でもポップスの要素も色々と取り込んだ独特な世界を作っている。競演したソヘイル氏のほうは、生粋のテヘランっ子なのだけれど、革命前にバンダル・アッバース方言で繊細なラブソングを歌い上げた伝説の歌手ラミ(エブラヒーミー・モンセフィー)をカバーしていて、アクセントの強い情熱的な訛りとギターで、どこかシャンソンやラテンの歌手のような雰囲気だ。(日本でいえば、博多弁でブルースを歌うような感じ?) バンダル・アッバース方言を聞くのは初めてだったのだけれど、よく分からないなりにも、どことなく郷愁を帯びた暖かい口調の方言で、聞いているあいだに、なんだか旅に出たくなってしまった。

ちなみに、灼熱のペルシア湾岸地方に住む人々は肌も浅黒く、人なつっこく、性格がはっきりとした暖かい人が多いのだが、不思議な事に、芸術や文化の分野で独自の魅力をもった作品が出てくる地域でもある。例えば映画をとっても、アミール・ナーデリーの「駆ける少年」(日本ではキアロスタミ以前に紹介されて話題になった)や、タクヴァーイーなどの独特の優れた作品は、この地方のものだ。

他に話題だったのは、パキスタンとの国境沿いのバルチスターン地方(ヌーク・アーバード)から来たグループ、「ピール・パタル」。これはスーフィズム(イスラーム神秘主義)のカーディリーヤ教団のグループで、コンサートというよりも、打楽器ダフをバックに神や預言者ムハンマドやアリー(シーア派の第1イマーム)の名を連呼しながら一定の所作を繰り返すスーフィズムの儀礼(ズィクル)を披露していた。彼らのズィクル儀礼は本来、病気などの癒しを目的に行われるもので、コンサートとしては今回20年ぶりに行われたそうだ。でも、神に呼びかけながら、病気の回復を祈ってひざまずく所作と歌声は、シンプルな美しさが滲み出ていて、不意に音楽の根源を感じさせるようなものだったと思う。会場の若い人たちもしーんと水を打ったように静かに聞き入っていて、エキスポのニュースレターでもこのズィクルのコンサートについて特別に紹介されていたから、聞いていた人たちはきっと皆、同じような感想だったと思う。


  

ピール・パタルのズィクルの動作(左) エキスポではイランの伝統楽器も色々と展示されていました(右)


それにしても、ひとくちにイランといっても、各地によって本当に様々な文化があるんだなぁと、改めて実感する。本の知識として知っているつもりでも、音楽などでその幅に触れると、やっぱり単純に「!」と思う。まだまだ実際には触れたことのない地域がたくさんあって、なんだかやっぱり旅に出たくなってしまった。


ペルシアのバレンタイン 「セパンダルマズガーンの祭」

2008-02-25 | テヘラン日記
少し過ぎてしまったけれど、イランの暦では古代から続く風習で、2月18日が「セパンダルマズガーンの祭」といって、西欧のバレンタインと同じように愛の象徴とされ、愛する人にプレゼントを贈ったり、女性を大切にする日です。

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春分の日をお正月とするイランの暦では今月は年末で慌ただしい季節なのだけれど、春、そしてお正月を迎える直前のそわそわした時期に、愛をはぐくんだり、愛について思いを馳せる特別な日があるというのは、(他のイスラーム諸国で使われている太陰暦のヒジュラ暦とは異なって)ずっと太陽暦にもとづく農事暦を使い続けてきたこの国の時間の流れにぴったりとあっているような気がする。


      大地と女性の守護天使、セパンダルマズ


イランの暦はもともとゾロアスター教の文化や風習にもとづいたもので、ペルシアのバレンタイン「セパンダルマズガーンの祭」にもゾロアスター教、またはイラン古来の思想が反映されている。それを理解するためには少しイランの暦の仕組みについて知っておく必要がある。

イランの旧暦や、現在もゾロアスター教徒の人たちが使っている暦では、1ヶ月は30日で、どの日もそれぞれ天使の名前や神の属性で呼ばれている。まず1日目はアフラマズダ。ゾロアスター教の最高神(善神)で、世界の始まりから悪神のアフリマンと闘い最後に勝利するという、善悪の闘争の哲学で有名だ。そして2日目から7日目まではアフラマズダに仕える6人の聖天使の名前が連なっている。2日目はバフマン(健康や思想を象徴する天使)、3日目はオルディーベヘシュト(光を司り、真実と清らかさを象徴する天使)、4日目はシャフリーヴァル(理想の君主を象徴する天使)、5日目はセパンダルマズ(大地を象徴する天使)、6日目はホルダード(完全さと正しさを象徴する天使)、7日目はアムルダード(不死と永遠を象徴する天使)となっていて、続いてより下位の天使たちの名前が続く。

同様に月名にも、ファルヴァルディーン、オルディーベヘシュト、ホルダード、ティール、モルダード(旧名アムルダード)、シャフリーヴァル、メフル、アーバーン、アーザル、デイ、バフマン、エスファンド(旧名セパンダルマズ)という名前がついていて、現在の暦でも使われている。面白いのは、これらの月名は1日1日の名前と重なっていて、イランでは古来、月と日の名前が一致した日にお祝いをするという風習になっていたことだ。たとえば、メフル月のメフル日(現在のイラン暦7月10日/西暦10月2日)にはメフレガーンの祭、セパンダルマズ月のセパンダルマズ日(現在のイラン暦11月27日/西暦2月18日)には「セパンダルマズガーンの祭」といった具合に毎月お祭りがあることになる。そしてこの「セパンダルマズガーンの祭」がペルシア古来のバレンタインにあたるというわけだ。(ちなみに、イランの年末にあたる今月、エスファンド月はセパンダルマズから転化した発音だ。)

さて、1日1日に神や天使の名前が付けられているのは、時間の中で生きる人間が神や天使たちの属性を日々自分たちのものとして培っていけるように、という思いが込められている。そしてまた古くには、それぞれの日には名前にちなんだ特性があるとされ、例えば「アフラマズダ」の日(1日目)は吉の良い日で、この日に旅行に出かけたり新しい服をおろしたりするのは幸先がいいと信じられていた。ササン朝時代のあるゾロアスター教僧侶は「この日には飲んで楽しむがよい!」と書いている。肝心のセパンダルマズはというと、彼女は大地を守護する天使として、豊穣、柔和(謙遜)、忍耐の意味も併せ持っていて、正しく清らかで夫を愛する女性や母を守護する存在でもある。このため、天使セパンダルマズは古くから愛の象徴と考えられてきた。セパンダルマズに象徴される理想の女性は、全ての愛を育み、母のように全てを包み込む慈愛の人で、「セパンダルマズガーンの祭」にはその意味で女性が称えられ、プレゼントが贈られ、男性が女性たちの言いつけを聞いたりする1日でもあったらしい。

最近のイランでは、西欧から入ってきたバレンタインがブームになっているけれど、その一方で伝統的な「セパンダルマズガーンの祭」を忘れないようにという声もなかなか根強く、この日にパーティーが行われたりもしている。最近、映画監督のベイザーイー氏にお会いする機会があったのだけれど、彼も、奥さんがセパンダルマズガーンのパーティーを開いていたよ、と言っていたし、アメリカやヨーロッパに住んでいるイラン人の人たちもイランを懐かしんでパーティーを開いたり、レストランやクラブで催しが行われたりもしているとか。

日本ではチョコレート商戦一色のバレンタインだけれど、ペルシアのこんな古い風習に思いを馳せてみると、女性の美徳というものについてちょっと考えさせられるような気がする(!)


ファジュル音楽祭

2008-02-11 | アート
今回、ファジュル音楽祭で聴きに行ったコンサートは、国際部門では、ライラ・アフシャールのクラッシクギター(アメリカ在住のイラン女性)、バッハの室内楽(オランダ+イラン)、国内部門では、テヘラン交響楽団の新作「ルーミー交響曲」(フーシャング・カームカール作曲、指揮)の3つで、どれもとても引き込まれる素敵なコンサートだった。ちなみに、国際部門では他に、フランスやオーストリア、アゼルバイジャン共和国、インド、アルバニア、トルコからのグループが招待されていた。

「ルーミー交響曲」は、ペルシア文学の中でもとりわけ名高いルーミーの神秘主義詩から構想を得た、クルド系の人気の作曲家フーシャング・カームカール氏(Hushang Kamkar)の新作で、西洋的なオーケストラにイランの古典楽器(サントゥール、タール、セタール、ダフetc…)や伝統的な歌唱を加えた迫力のある楽曲だった。カームカール氏は、クルド系カームカール家の一族兄弟姉妹で構成された「カームカール・アンサンブル」のメンバーとしても有名で、この「カームカール・アンサンブル」は、イランやクルドの民俗音楽のダイナミックかつモダンな編曲で、イラン国内はいうまでもなくヨーロッパでも人気のあるグループだ。日本ではそれほど知られていないかもしれないけれど、ルーミーの神秘主義詩は一時期アメリカでベストセラーにもなっていて、英語でもいくつも翻訳が出ている。



交響楽団の新作「ルーミー交響曲」(フーシャング・カームカール作曲、指揮)


ライラ・アフシャールはアメリカ在住の女性ギタリストで、イラン人女性として初めてギターのPh.Dを持ち、現在はメンフィス大学で教鞭をとりつつ、アメリカ国内をはじめ、イタリアやスペインなどヨーロッパ各国でもリサイタルを行っている。古典的なギター曲から、スパニッシュ、イランの音楽まで、幅広く手がけていて、特にイラン独特の哀愁を帯びたメロディーの熱っぽくリズミカルな演奏は、とてもファンが多い。

バッハの室内楽は、オランダの声楽家、リュート奏者、チェロ奏者に、イランの音大生が加わったはやごしらえのアンサンブルだったのだけれど、2,3日の練習とは思えないほど息があっていて、特に、まだ学部生の男の子たちが弾いていたバイオリンやチェロは、オランダからのプロに負けないくらい上手だった。

この室内楽のコンサートでは、オランダ人の声楽家がとても印象に残るアンコールを披露してくれた。それは、イランで革命前から親しまれているフォークソングで、彼がおぼつかないペルシア語で歌い始めたとたん、会場がわっと歓声で一杯になった。でも、もっと心に残るのは、なぜこの歌を選んだかというエピソード。彼にはオランダでイラン人の隣人がいて、長いことオランダに住んでいるそのイラン人の老婦人は、毎日のようにイランを懐かしんでこの歌を歌っていたそうで、毎日そのメロディーを聴いているうちに、いつしか彼にも忘れられない歌として心に残ったのだという。本当に音楽は、国境や言葉の違いを超えて人々の心をとらえるんだ、と素直に感動できる場面だった。このコンサートの模様については、オランダでも年末のニュースを彩っていたそうだ。


  

ペルシア語で歌うオランダの声楽家(左) アルバニアの民族音楽(右)


ちなみにこの室内楽コンサートは、イランの他に、マグレブやシリア、エジプト、イラク、シリア、香港 etc…各国で様々な音楽フェスティバルの顧問として活躍しているオランダの音楽プロデューサーの企画によるものだったのだが、特に彼が今手がけている、2009年に香港で開催の「シルクロード・フェスティバル」は、中東から中央アジア、東アジア諸国の音楽が幅広く紹介される催しとして、とても面白くなりそう、とのこと。彼もイランには9回目の訪問だそうで、イラン各地の民族音楽の収集にとても熱を入れている。

今年はこのファジュル音楽祭に続いて、「テヘラン・ミュージック・エキスポ」という初の催しが開催されて、とても話題になっていた。豪華なファジュル音楽祭に比べて、このエキスポはカジュアルでフレンドリーな雰囲気で、こちらは会場がアパートの近くだったこともあって、ほとんど通い詰めてしまった。このエキスポについても、また次回レポート。

ファジュル国際芸術祭

2008-02-10 | アート
テヘランはファジュル映画祭でにぎわう季節になりました。

この映画祭は、今年で26年目を迎えるファジュル国際芸術祭の一部門で、世界各国から多くの著名な監督の作品がよせられる、中東随一の映画祭。ファジュル国際芸術祭は映画部門のほかに、音楽、演劇、また今年で2回目を迎える詩の部門があり、どの部門でも、テヘランのあちこちの劇場や芸術会館などで、朝から晩まで、各種セミナーやワークショップ、公演など、様々な活気あるプログラムが組まれている。今年のイラン映画部門では、最近ベルリン映画祭で金熊賞を受賞したマジッド・マジディ監督の「スズメたちの歌」もプログラムに入っているらしく、楽しみだ。




「芸術家の家(khaneye honarmandan)」の一角に飾られた、伝統的な操り人形


革命後に始まったファジュル国際芸術祭は、2月11日の革命記念日を祝う一連のセレモニーの一環として開催されているが、実は、ファジュル国際芸術祭の前身には、王政時代の「シーラーズ国際芸術祭」があって、その伝統を引き継いで始まったものと言われている。たまたま王政時代の芸術誌をめくっていると、この「シーラーズ国際芸術祭」の批評記事が載っていて、例えば、アケメネス朝時代の壮大な遺跡ペルセポリスを舞台にモダンバレエの公演が行われたり、楽器の代わりにラジオの音波や色々な電子音によるドイツのカールハインツ・シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen) の電子音楽オーケストラを招いたり、70年代の当時、国際的にも知られたとてもモダンな芸術祭だったようだ。イランは古くから芸術を愛する国で、長い歴史をもつファジュル国際芸術祭や、近年のイラン映画の世界的な活躍ぶりも、こうした長い伝統に支えられている。

年末には音楽祭がトップをきって開催され、私もチケットのおこぼれを頂いて、日頃あまりふれる機会のなかったイランの音楽シーンにはまった数日間だった。今回のファジュル音楽祭では、初めて、ポップ部門も開催されたとかで、私自身は行くチャンスがなかったのだけれど、コンサート会場の近くを通りかかると、こぞっておしゃれをして集まった若者たちで一杯だった。コンサートや劇場では、日中、通りを歩いている格好とは全くうってかわって、思い思いにおしゃれをして集まってくる色々な年代の人たちを観察するのも、また別の楽しみだ。

ファジュル音楽祭のレポートはまた次回!


テヘラン日記再開です/映画「ハーフェズ ペルシアの詩」

2008-01-20 | アート
ずいぶん長いことお休みしてしまいましたが、久しぶりに「テヘラン日記」に戻って来ました。時々覗いて下さっていた皆さん、長いあいだ更新できなくてごめんなさい。

こちらのほうはまだ留学中で、テヘランでの毎日も続いています。今年は少しづつでもまた更新予定なので、またおつきあい頂けたら嬉しいです。




イランの写真家の作品から


日本では今日から、麻生久美子さん主演の映画「ハーフェズ ペルシアの詩」が公開されたとか。制作前からイランでも時々新聞などで話題になっていて、ずっと公開が待ち遠しい映画だったので、とても嬉しい。でも残念なことにイラン国内ではアボルファズル・ジャリリの映画は上映の許可がなく、海外から入ってくるCDやDVDを探して見るしかなく、実際に映画を観るのはDVDを入手するまでもうしばらくお預けになってしまいそう。

アボルファズル・ジャリリは現在フランス在住で、各国際映画祭での受賞を通してイラン映画の代表的な監督として世界的に知名度が高いけれど、残念なことに本国イランでは少数の映画ファンやアート関係者などを除いて、ほとんど知られていない。これは彼が、イラン本国では上映許可がないことから海外に拠点を移したアーティストだからだ。

少し前、アボルファズル・ジャリリがイランにも来ていて、深夜のトーク番組に出演していたのだけれど、そのときに自分でも「僕は海外では知られているけれど、イランでは知られていないんだ」と涙混じりに切々と語っている姿が印象的だった。キアロスタミをはじめとして、現在、世界的に1つのジャンルを築き上げるまでになったイラン映画は、精神的な世界に比重を置くイランの文化や人々の生き方を何よりも雄弁に伝えるメディアとして、イランの知識人のあいだではとても高く評価されていて、本当ならイラン本国でももっと見直されていいはずなのだけれど、芸術の保護よりも規制や「指導」のほうに力を入れるイスラーム指導省の政策下では、残念ながら、ジャリリのようなアーティストはまだなかなか国内での活躍の機会がないようだ。だから、イランにいるのに映画館でイラン映画が見れないというジレンマに陥ってしまうのだけれど、DVDを手に入れる画策をしながら気長に待つのも、この国に暮らす知恵で、それもまたなかなか楽しいものだ。

映画「雨の降った夜」

2006-11-03 | アート
(1967年制作 Kamran Shirdel)

数日前、テレビでイランの古いドキュメンタリー映画を放映していた。最初はイラン映画だと思わず、イタリアかどこかの片田舎の古い映画なのかと思って見ていたら、革命前の古い映画なので、ネクタイをしめたり帽子をかぶったりと人々の服装が欧米風で、ぱっと見ても分からなかったのだった。




 - So, you don't even see this boy? - No


イラン映画ではたとえばキアロスタミのドキュメンタリーとフィクションを混ぜ合わせたような独特な手法が有名だけれど、テレビなどで見ていると、キアロスタミ以前にもずっと前から斬新なドキュメンタリー映画が沢山あって、こうした過去の作品の積み重ねの中から、80年代後半頃から世界の映画祭で注目されるようになったイラン映画が出てきたのだろうと思わされる。イランでの映画の歴史は実はとても古くて、1900年、パリの万国博覧会でルミエール兄弟が初めて映写機を紹介した時に、ちょうどヨーロッパ視察旅行でパリを訪れていたイランのカージャール朝の王モザッファルディーン・シャーがこの新しい発明の虜になって、即座に一式を購入してイランに持ち帰ったのが、イラン映画史の始まりだった。

モザッファルディーン・シャーは映写機を購入した当時、かなりの歳だったのだけれど、すっかり映画に夢中になって、自ら指揮をとって映画を撮ったり、役者として演技したりしていたらしい。彼が撮った映画は、コサック兵と王の行進、馬に乗るシーン、テヘラン郊外やゴレスターン宮殿での運動の様子、女性たちが通り過ぎるシーン、シーア派の殉教祭など、カージャール朝時代の王宮その他の生活を伝えるイラン最初のドキュメンタリーだそうで、(残念ながらまだ観たことがないのだけれど)想像するだけでも面白そうだ。史料には「映写技師!明日はライオンを撮るのだから、明日の朝早く映写機(シネマトグラフ)を2,3のフィルムと一緒に持ってくるのだぞ!」とか、映画に夢中な王の命令がちゃんと記録に残されている。残念ながら、モザッファルディーン・シャーと映画のこの蜜月期はやがて1905~1911年にかけてのイラン立憲革命の政治的変動*のなかで終わってしまう。でも立憲革命の時期には、それまで王宮で映画を上映してもあまり興味を示さなかった貴族たちのあいだで、国内の厳しい状況に対する反動として、欧米の進歩や新しい技術としての映画に関心を持つ人々が生じたという。

[*19世紀以来のイギリスやロシアの政治的干渉や、カージャール朝の財政難に伴うヨーロッパの投資家への多数の利権譲渡のなかで、対外的従属を深める王朝権力に対する全国的な抗議運動を通じて、イラン初の国民議会と憲法が制定された。だが結果として、このナショナリズムの運動はイギリスやロシアの干渉に遭って挫折し、1979年のイラン・イスラーム革命はこの立憲革命の挫折を克服する意味も持っていた。]


  -Pure lies, its all made up, sir
 -The Gorgan village boy doesn't exist


1967年制作の「雨の降った夜」はイランの映画史のなかでもドキュメンタリーの名作に数えられている。ストーリーはというと、ある日、大雨のために線路が決壊しているのを一人の少年が見つけて、人々に知らせ、脱線事故を防いだ。だが、調査の段階になると、鉄道会社は自分たちの過失を隠蔽するため、そのような出来事はなかったと主張し、現場近くに住む男は手柄を自分のものにしようと虚偽の主張をする。大人たちのこのような嘘に対して綿密にカメラが回され、少年はカメラの前で緊張した面持ちで「雨の降った夜」について語る。近くの牧歌的な風景を挟みながら、様々な関係者の発言がはじめはごく普通のインタビューとしてひとつずつ紹介されていくのだが、やがて彼らの発言に矛盾や疑惑が生じるにつれて、映画の文体も少しずつ崩れていき、最後には大人たちの発言ではなく、表情や、背広の勲章や、恰幅のよい身なりや、落ち着かない身振り・・といったディテールがクローズアップされ、彼らの嘘が映像として示される。また画面の所々に、映画を撮っている監督や映画技師たちの写真も挿入されていて、〈嘘をつく大人たち〉と〈嘘を見抜く大人たち〉が何気なく対比されているようにも見える。映画のなかで映画を撮ってしまったり、〈映画の監督キアロスタミを演じる役者〉と〈映画のなかの映画の監督キアロスタミを演じる役者〉が対話したりするキアロスタミの作風のルーツにも思えたりして、「イラン映画史」という視点で見るともっと面白いかもしれない。ドキュメンタリー映画をシニカルな視点と小気味のよいリズムで芸術映画に書き換えているような感じで、素人目にも映画史の教科書のなかに書かれているのが納得できる作品だった。

キアロスタミはもちろん大好きだし、日本でもイラン映画の様々な名作が紹介されているけれど、イラン映画が国際的に知られるようになる以前の作品のなかにも面白い作品が色々ありそうだ。国営放送だけなのだけれど、テレビもなかなかいいなぁと思ったのだった。

 
 May he lives six ― score years in this life― time shed no tear

携帯メール

2006-10-30 | テヘラン日記

イランでも携帯はビジネスマンの必需品、若者たちのコミュニケーションツール。若い人たちは次々と新機種に買い換えて、携帯メールでのコミュニケーションを楽しんでいる。


  散歩中に見つけたストリートアート。


携帯メールでは、挨拶も詩で交わしたり、きついジョークをみんなに流したりしているようで、外国人の私にはペルシア語上級編(若者コトバ)で、興味深くてちょっと背伸びの世界という感じだ。でも、アゼルバイジャン地方の州都タブリーズから時々メールを送ってくれる友達がいて、少し前にもこんなメールが送られてきた。


 人生は花の蜜のよう
 時のミツバチがなめとると
 後にのこるのは思い出という蜂蜜だけ
 (→人生は甘美だけど、時が過ぎてしまえば、甘い思い出しか残らないのよ)


噂には聞いていたけれど、初めてもらった詩のメールだったので、嬉しくなって「すご~い!詩人だね!」と返すと、すぐに2通目が。


 あなたを思いながら生きるのが 罪だとしたら
 知っていておくれ
 僕は毎夜 罪におぼれていることを
 (→しばらくメールしてなかったけど、いつも思っているから!いい子ちゃん!)


なんだか熱烈なラブレターのような文面だけれど、送ってくれたのは女の子で、とても明るくて、楽しいことの大好きなアクティヴな大学生。メールの文体はちょっと不良っぽい街の若者言葉で、女の子もわざと宝塚風に男の子言葉でじゃれあって話したりするらしい。でもこのメールをテヘランで別の友達に見せると、「どこで覚えてくるんだか!」と笑っていたし、みんながみんなというわけではなくて、彼女が気の利いた子だということみたいだ。ハイヤームやハーフェズなどでも知られた詩の大好きなお国柄だけあって、こんな詩のメールにも、社交的でセンスのいい人はすぐに相手の度肝を抜くような詩を送ったり、それにまた返事が返ってきたりと、携帯メールで楽しくコミュニケーションを取っている。


  
 
これも上の続き。ミニアチュールのモチーフを使っていて綺麗でした。


最近、携帯メールでは、民間で女性初の宇宙旅行に行ったアンサリー女史についてのジョークが色々流行っていて、そのひとつは、「ラマダーンの日時を決めるために月を観測する時、月が2つあって、どっちを観測していいか困ったらしいよ」というものだった。月が2つあるというのは、イランでは美しい女性のことを月に喩えるので、アンサリー女史を本物の月と見間違うほどだったという落ちで、ペルシア文学の国ならではの文学的でかつスパイスの利いたジョークとして、会う人会う人がみんな嬉しそうに教えてくれた。

スパイスの利いた詩といえば、最近読んだ詩のなかにこんな一遍があって、ちょっと気に入っている。


「天国」

  アダムは小麦を食べた罪で
          エヴァと一緒に
  天国から追い出された
  でもいったい何が悲しい
  エヴァは彼女自身が天国だ


イランのちょっと年配の男性たちに時々見かけられる不屈のユーモアの精神は、この詩のように人間味に満ちていて、人生自体は苦労が絶えなくても、明るく笑ってしまえるところがなんといっても格好いい。ペルシア文学というとなんだか難しそうなイメージがあると思うけれど、日常生活のなかで文学的伝統を汲みとって生きている人たちは、会って少し話すだけでなんだか面白そう!という存在感があって、まず会話や雰囲気そのものに引きつけられてしまう。たとえば、前に講演会でお会いしたニューヨーク在住の著名な研究者の先生も、パリで学位を取って現在は英語やフランス語で著述を行っているとても優れた研究者なのだけれど、口を開けば、上の詩に似た感じの何かシニカルなジョークが出てきて、研究内容について触れる以前にも、とても魅力的な人だった。そういえば、先生から「どうしてイランのことを勉強しているのですか?」と聞かれて、中東やペルシアの文化に興味があったから・・とか、おきまりのような返事しかできなくて困ってしまったのだけれど、今思うと、先生のような人がいるからです、と言えばよかったのかもしれない。私も、もっとペルシア語会話を磨いて、宝塚風の可愛らしい若者コトバも、ちょっと悲哀に満ちたシニカルなおじさんたちのジョークも、もう少し気の利いた答えが返せるように頑張りたいなぁ・・というのが最近の目標です。


山の上の喫茶店

2006-10-21 | テヘラン日記
テヘラン北部の山の上にある小さな喫茶店。たしか名前はなくて、小さな金魚の絵が目印だったような気がする。

バムの子供達のためのNGOを主催する女性が切り盛りしている本当に小さな喫茶店で、メニューはハーブの蒸留水や各種ハーブティーとちょっとしたパウンドケーキなど。小さな店内は時々、ギャラリーにもなって、常連客や彼女の知り合いのアーティストの作品が展示される。初めて行ったのは去年の秋で、友達3人と山登りに行った帰り、脇道にそれて歩いている途中に偶然見つけたのだった。オーナーの女性は、キアロスタミの映画『友達のうちはどこ?』に続く3部作の舞台にもなったイラン北部カスピ海沿岸地方の出身で、手作りハーブティーや蒸留水は彼女の出身地でもよく作られるものだという。聞くと、お店の家具やランプシェードも全て手作りで、片隅にある、やっぱり手作りの小さな本棚には、彼女のお気に入りの詩集や小説や60年代~70年代の古いレコードが並んでいて、友達の家に遊びに来たような親しげな雰囲気がすっかりお気に入りになってしまった。

 
  
山の上の喫茶店とイマームザーデ。


喫茶店の近くには、少し坂を上った所に小さなイマームザーデがある。イマームザーデというのは、このあいだ紹介したシーア派の12人のイマームたちやその子孫たちを奉った廟で、イラン各地にはどこにいっても色々なイマームザーデがある。日本でいうと孔子廟とか天神様とかいった感じだろうか。喫茶店によった帰りに、このイマームザーデを覗いてみると、建物(お堂?)の中で小さな女の子が2人で仲良く本を読んでいた。私の子供の頃にも、家の近くに弁天神社があって、ラジオ体操の場所だったり、紙芝居のおじさんが来たり、境内で木登りをしたりして遊んでいたのを思い出す。場所は違うけれど、きっと同じような感覚なのだろうなと思う。この喫茶店を知っている人に、「近くにイマームザーデがあるよね」というと、「ああ、そうそう、こじんまりしたイマームザーデがあるね!」とにこやかな顔になって少し目を細めていたから、やっぱりノスタルジックな印象を感じるのだろう。

さて、イランではNGOの活動は、バム(ユネスコの世界遺産にも指定されていた古代都市)の震災から少しずつ増えたそうで、彼女の場合は、この喫茶店のほかに友達と一緒に子供のための芸術教室を開いたり、子供の絵の展示会を計画して、各方面に寄付を募ったりしているそうだ。面白いと思ったのは、「寄付などの協力を呼びかけるときに、主にどういった所から始めるのですか?」と聞いてみると、「宗教的な慈善活動をしている人たちの集まりにはよく参加するかしら?そういった所から始めて、パンフレットを配ったり、とにかく色々と啓蒙活動に頑張っているわね」とのこと。

  
アルボルズ山脈の一端がテヘラン北部まで延びている。山間には古くからの庭園も多い。


イランでは自発的にモスクや自宅で開かれる宗教的な会合が色々あって、私のアパートの近所でも、敬虔なムスリムの人が開催するこうした会合のポスターがお家の戸口に貼ってあるのをよく見かける。日本でいうと町内会やお寺の集会といった気軽な感じで、例えば、友達のお母さんは、「今日はモスクで集会がある日だから、ちょっと出かけてくるわ」といそいそと出かけて行くのだけれど、友達は「お母さんは、集会の後に服とか小物とか色々売っているみたい」とちょっと怪訝そうな顔をしているから、日常的な団らんの場でもあるのだろう。私自身はまだ1度しか行ったことがないのだけれど、会合の後は皆でお喋りに花を咲かせてとても賑やかだった。NGOの活動もこうした伝統的な場を利用しているというのは、いかにもイスラームの国らしく、面白いなぁと思う。

イマームザーデと喫茶店とか、イスラームの会合とNGOとか、このレトロ+モダンの組み合わせは、実はなかなか、テヘランの雰囲気をよく表しているんじゃないかなぁと思う。もう少し追求してみたいテーマだ。

シーア派の殉教祭(アリー)

2006-10-16 | テヘラン日記

 木曜日の夜から今日まで、イラン(とシーア派世界)では3夜にわたって、シーア派の第1代目イマーム・アリーの殉教を記念する哀悼祭が行われた。


  
モスクでの哀悼祭の様子。アラビア語で獅子アリーを象った文様。アリーは武勇から獅子にたとえられる。


 イスラームにはスンナ派とシーア派の2つの宗派があって、イランは16世紀初頭のサファヴィー朝(1501~1736)からシーア派(そのうちの12イマーム派という分派)を国教としている。世界史の教科書のような話になるけれど、シーア派がスンナ派と異なるのは預言者ムハンマドの後継者をめぐってで、イスラーム共同体(ウンマ)の支配者が4人の正統カリフ→ウマイヤ朝→アッバース朝と継承されたこと(この大多数の立場が後にスンナ派を形成する)に異議を唱えて、ムハンマドの娘婿で従兄弟でしかも幼なじみだったアリーと彼の子孫が本来の後継者だと主張する人々がシーア派と呼ばれるようになった。
 イランの国教の12イマーム派は、アリーから彼の12代目の子孫までを、政治的にも霊的にもイスラーム共同体の本来の指導者(イマーム)として信じているのだが、スンナ派のウマイヤ朝やアッバース朝との対立のなかで、11代目までの全てのイマームが殉教したことになっている。そして彼らの殉教に続いて、最後のイマームである12代目のマフディーは幼少の頃に姿を消して、終末に再び救世主として現れるという信仰が、12イマーム派の教義の大きな要素となっている。

 シーア派にとって最も大きな宗教的行事は、第3代目イマーム・ホセインの殉教を記念する哀悼祭(アーシューラー)なのだが、今回のアリーへの追悼祭はそれに比べると控えめな規模で行われてきたそうだ。でも木曜日の夜、近くのモスクには、夕方の礼拝の後から夜更けまで、黒い服を着た人々が続々と集まってきて、夜中3時位までアリーを忍ぶ説教と追悼の集会が行われていたし、私の住む地区では半径数キロまで届きそうな大音量でアリー!アリー!と集会が行われていて、2日目はお休みだったのだけれど、一昨日と昨日と明け方まで眠れない長い1日になってしまった。昨日、夜中に様子を見にモスクの近くまで行ってみると、道路にずっと先までモスクに詰めかけた人々の車が停めてあって、また若い男の子たちもどこか夜遊びのような雰囲気を漂わせてたむろしている。様子を見ていた近所の人たちが、「今年はなんだか多いなぁ。何事だろう?」とつぶやいていたのだけれど、アリーへの敬愛や情愛を抱く人々が自発的に集まってきていて、じわじわとシーア派の大きな行事になりそうだという見方があるらしい。ちなみにアリーはイランのシーア派の人々にとって「男の中の男」という理想として描かれていて、街中でも大衆食堂や床屋や個人商店などの庶民的な店には、アリーの肖像画が飾ってある。また最近は以前に比べると少なくなってきたそうだけれど、イランで人気の男の子の名前のひとつもアリーだ。

  イラクのナジャフにあるアリー廟。


 去年、眠れないまま、街中に響き渡る真夜中の説教を聞いていたら、所々しか分からなかったのだけれど、とてもショックなフレーズを耳にしてしまった。「外国人(ハーレジー)は出て行け!」 えっ・・・そんなぁ・・・!と思って、次の日、学校で話すと、みんな「気にしない、気にしない」と言う。でも1人の先生が「おかしいなぁ。モスクでそんな政治的なことを言うはずがないよ。おかしいなぁ・・・」と考えこんでから、笑い顔で「わかった。アリーを殺したハワーリジュ派(ハヮーレジー)のことを言ったんだよ。外国人(ハーレジー)じゃない(笑)」と説明してくれた。先生はよっぽど印象に残ったのか、今年も私の顔を見ると、「外国人じゃないよ!いいかい?」と念を押す。よっぽどイランを怖がっていたのだと思われただろう。でも今年は去年のそんなエピソードも友達のあいだでの笑い話だ。

おすそわけ

2006-10-13 | テヘラン日記
 一昨日の夜、アパートのドアを、こんこん、と、小さく叩く音が聞こえたので、誰だろう?と思って出てみると、階下の小さな女の子がお母さんに言われてスープを持ってきてくれていた。「お母さんから。どうぞ!」と言って渡されたのは、前に紹介した豆とハーブと麺入りのスープ、アーシュ・レシュテ。できたての熱々で、可愛らしくトッピングもしてあって、家庭の手作りのアーシュ・レシュテを頂くのは初めてだったので、思わず頬がゆるんでしまう。

  熱々のスープ。栄養満点!


 実は、このおすそわけに続いて、昨日は近所の奥さんから、「ブーシェフル(ペルシア湾岸の港湾都市)の家の庭でとれたナツメヤシよ」と2キロ位のおすそわけを頂いたのだけれど、その時ちょうど、ナツメヤシをくれた奥さんに、別の近所の人が自分で育てた観葉植物をおすそわけに持ってきていて、気軽に皆でおすそわけをしている様子がなんだかとても印象に残った。そういえば、今日も夕方パンを買いに行くと、ちょうど全部売り切れてしまったところで、2枚パンを買った初老の男性が、よかったらどうぞ、と1枚おすそわけしてくれた。(慌ててパン代を渡してしまったのだけれど、後で聞くと、パンのおすそわけに対してお金を渡すのは礼儀に反しているそうで、失敗してしまった。。)

 でも「おすそわけ」という言葉はペルシア語にはなくて、こうしたおすそわけはどれも別々の意味を持っている。まず、ラマダーンやシーア派の殉教行事(3代イマーム・ホセインの殉教を悼むアーシューラーの行事)の時などに食事を配るのは、ゾロアスター教から続く古くからの風習で、ナズリー(nazri)と呼ばれる(古くはgahanbarと呼ばれていた)。病気の回復や息子が入試に受かるようにとか、祈願の成就を願って人々に食事を振る舞い、人々も「願い事が叶いますように(qabul basheh)」と言って一緒に祈願する。ナツメヤシをくれたのはブーシェフルからのお土産。遠くに行った人は、近所の人も含めて、知り合いの人にあれこれとお土産を持ってくるのがごく普通だそうだ。

 植物や花をあげるのも、イランの古くからの風習で、今は実践する人が少なくなってしまったそうだけれど、自然を大切にするという意味を込めて、互いにプレゼントしあったり、「木を植える日(ruze derakht-kari)」に街路や庭に植樹したりする。子供が生まれた時も、誕生を記念して庭に植樹するというので、日本の風習と少し似ているかもしれない。また、パンは神の恵み(barakat khoda)で、決して、ただの食べ物や品物としては扱われず、パンを施すと神からの恵みがかえってくると信じられている。だから、パン屋さん以外の人が、パンに対してお金を得るのはよくないことだと考えられているらしい。

 さて、アーシュ・レシュテが入っていたのは使い捨てのお皿だったのだけれど、ナツメヤシは大きなタッパーにどっさりと渡されたので、日本式に「タッパーに何か入れて返したほうがいいのかなぁ?」と考えていると、やっぱり近所の人と「アゼルバイジャンの人は必ず何か入れて返すのだけど、日本もそうなのね」という話になった。例えば、人生が甘くなりますようにという願いを込めて飴(nabat)を入れたり、何もない時は、人生が緑豊かになりますようにという願いを込めて緑の葉っぱ(barge sabz)を入れたりするらしい。お返しもシンプルでちょっと詩的で、詩の国イランにぴったりなような気がする。


コーヒー占い (photo)

2006-10-10 | テヘラン日記
前にコーヒー占いについて書いたのですが、前にお呼ばれに行った時に撮った写真があったので、アップしたいと思います。


おじゃましたのは、バムの震災後、NGOとしてバムの子供達のためにボランティア活動をしている女性のお家だったのだけれど、こじんまりとしていながらもとても雰囲気のある空間で、画集や古い本の並ぶ本棚を見せてもらったり、色々な話に花が咲いて、夜かなり遅くまで残ってしまった。

彼女はNGOの活動のかたわら、テヘラン北部の山あいに小さな喫茶店を開いていて、初めてお会いしたのは、山登りの後に見つけたその可愛らしい喫茶店に立ち寄った時だった。手作りの何種類ものハーブ茶やハーブの蒸留水を出すお店で、文学作品や古いレコードを置いた店内は、いつも常連客ですぐに一杯になってしまう。(続きはまたこんど。。)

せっかくだからコーヒー占いでもしようという話になって、何気なく本棚を覗いていると、私の買ったのと同じコーヒー占いの本が!でも占おうとする段になると、「まだ初心者だから、あなたが先にどうぞ」「いや、あなたが」と遠慮しあって、みんなが少しづつ、ほんの少し解釈した程度で終わってしまって残念だった。でもカップを逆さにしている間のそわそわとした雰囲気は、何かとてもいい事が待っているようで、いつも楽しい数分だ。

   
色とりどりの果物を盛ったお皿。もてなしには欠かせない。
まずソーサーをひっくり返して数分待ってから占う。



高校生のお嬢さん。ピアス?と思ってみると・・・パンク?!


ラマダ-ンのおやつ

2006-10-09 | テヘラン日記
夕方、散歩に出かけたついでに、街で売られているラマダーンの断食後のおやつや軽食の写真を撮ってきました。


  


まず、レストランやハンバーガーショップやジューススタンドなど、どこでも売っている、ハリーム(halim)という甘いお粥。小麦、挽肉、くるみ、砂糖、片栗粉をどろどろに煮込んでお粥にしたもので、その上にさらに砂糖とシナモンを振りかけて食べる。ハリームの隣は、豆類とハーブのスープに麺を入れて煮込んだアーシュ・レシュテ(ash reshte 麺入りスープ)という料理で、ハリームと並んで、ラマダン後の代表的な食事。レストランなどでは昼頃から大鍋で煮込んで用意をして、夕方、人々が鍋を持って買いに来る。

    
ズールビヤー・バーミイェ。左がバーミーイェ、右がズールビヤー。


またお菓子屋さんで売られているのは、ズールビヤー・バーミーイェという甘いドーナツ。何種類かあるが、どれもラマダンの時期によく食べるおやつのよう。去年ほんの少し通っていたペルシアン・ダンスの教室でも、ラマダンの時期には夕方に何度かこのドーナツが差し入れされていた。

お菓子屋さんを覗いてみたら、いつもは夕方になっても品揃えがいいのに、ケーキというケーキがほとんど売り切れていてびっくりした。イランでは老若男女問わず、みんな甘いものが大好きで、いつも家族用に、またお呼ばれ用に、1~2キロ単位でお菓子の箱を抱えて帰る人が多いのだが、ラマダンはいつにもましてお菓子の売れ行きが伸びているよう。みんなきっと断食を終えて、ほっと一息、お家でお茶とお菓子を楽しんでいるのだろう。

私も今日は1年ぶりにズールビヤー・バーミーイェを買ってきて、今からおやつです。