goo blog サービス終了のお知らせ 

青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

銀のミシン

2024-11-14 03:15:58 | 薔薇のオルゴール

ミュリエラ・コペル嬢は、真夜中の遅い時間、ことことと、銀色のミシンを回していました。お父さんの形見の、黒いコートを、小さい弟のために縫いなおし、かわいい上着を作っていたのです。銀色の古いミシンは、お母さんの形見でした。

コペル嬢のお父さんとお母さんが、事故でいっぺんに死んでしまったのは、五年も前のことでした。そのとき、弟のチコルは、まだ赤ちゃんをやっと卒業したくらいの年でした。コペル嬢は、小さな弟を育てるために、学校をやめ、小さな縫製工場で働きながら、町の片隅の小さなアパートの一室で、幼い弟を育てていました。

夜空の月が首をかしげて、窓からコペル嬢を覗きこむような顔をする頃、上着はやっと縫いあがりました。これから寒くなるので、しっかり体を温かく包むことができるように、裏地もちゃんとつけて、コートの袖にあったボタンを、ポケットに縫い付けて飾りました。コペル嬢は縫物が大変上手でした。亡くなったお母さんが、教えてくれたからです。

時計が午前一時を打ったので、コペル嬢は、上着をミシンの横の小さな机の上に置き、自分も眠ることにしました。そしてベッドの片隅に寝る、小さな弟の額にそっとキスをすると、自分も静かにその隣に寝そべって、毛布をかぶりました。…夢の中で、あの人に会えるかしら? コペル嬢はふと思いました。うとうととまどろみ始めたコペル嬢の耳に、かすかに、星を揺らすような不思議な透明な音楽が聞こえました。コペル嬢は夢の中に溶けていくように、眠りました。

夢の中で、コペル嬢は、誰かがどこかで歌っている、不思議な声を聞きました。

国には不思議な王様、住んでいる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
こりすが踊って、歌ってる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
しろかねのお月さん、聴いている。
黙ってそれを、聴いている。
王様、ひとりで笛を吹いている。
カチカチ鳴るは、金時計。
こばとがきょとんと顔を出し、笛の調べに耳澄ます。
王様、笛を吹いている。
ひとりで笛を、吹いている…。

次の朝、コペル嬢は、さっそく、新しい上着を弟に着せてみました。その上着は、弟のチコルの体に、ぴったりとあいました。弟はとても喜んで言いました。
「あったかいね。おとうさんみたいだね」
「ええ、おとうさんが、くれたのよ。だから、あったかいのよ」
「ぼく、たいせつに着るよ。絶対に、転ばないようにしよう。やぶれたら、こまるものね」
ミュリエラ・コペル嬢は、弟が嬉しそうに上着を着て床をはねるのを、喜んで見ていました。コペル嬢は、弟に、お昼ごはんは戸棚に置いてあるから、おとなしくして待っていてねと言って、近くにある縫製工場へとでかけていきました。チコルは少しさみしそうな顔をしましたが、しっかりした声で、「うん、ちゃんと待ってる」と言いました。

町は、冬でした。もうすぐ、クリスマスがきます。コペル嬢は工場への道を急ぎながらも、チコルに小さなプレゼントをしてあげたいと考えていました。けれども、コペル嬢が稼ぐことのできる少ないお金では、とても、高いおもちゃなど買うことはできませんでした。でも、クリスマスくらいは、なんとかしてあげたいと、コペル嬢は思っていました。コペル嬢は縫製工場のミシンを一心に踏んで、誰かの胸を温めるだろう小さなシャツを何枚も一生懸命に縫いました。お給金が少しでも増えたらいいのに、と考えがよぎりましたが、贅沢を言ってはいけないわ、とすぐに思い返しました。とにかく、何とかお金を工夫して、少しでも弟が喜ぶものを、買わなくては。コペル嬢はミシンを踏みながら考えていました。

ある休日のこと、コペル嬢は、小さなチコルを連れて、町にある小さな商店街を歩きました。何か、そんなに高価でなくて、チコルの喜びそうなものはないかしら?とコペル嬢は考えながら、商店街のウインドゥをのぞいていきました。商店街には、欅の並木があって、葉を落とした裸の枝を、寒い風に揺らしていました。コペル嬢は弟の手をぎゅっと握っていいました。
「寒くはない?チコル」
「うん、寒くないよ。お父さんのくれた、上着があるから」
「そうね。あったかいわね」
コペル嬢はやさしく弟に笑いかけました。弟はお姉さんとでかけられることが嬉しくて、本当はちょっと寒かったのだけど、あったかいと言ったのです。もっといい上着を買えたらいいのにと、コペル嬢は思いました。自分の上着も、そう寒さを防いではくれませんでしたから、弟の上着もそうだろうと思ったのです。

そのとき、誰かが、コペル嬢に声をかけてきました。
「やあ、こんにちは、マドモワゼル・コペル」振り向くと、そこに小さな古書店があって、その主人である、ムッシュ・ポルが、手を振りながら、コペル嬢に笑いかけていました。
「ずいぶんと寒いですねえ。どうです、中にはいりませんか。ちょうど、いいお茶を手にいれたところでしてねえ。いっしょに飲んでくれる相手を欲しがっていたところなのです。それは良い香りのお茶で、誰かと一緒に飲んで、喜んでもらわなければ、もったいないようなものなもので、よろしかったらしばらく、わたしの相手をしてくれませんか」

コペル嬢は、戸惑いましたが、チコルの方が先に飛び出して、大喜びで、古書店の中に入ってしまいました。コペル嬢は仕方なく、ポル氏にお礼を言いながら、店の奥で、お茶をいただくことにしました。

古い本の詰まった書棚の並ぶ書店の奥に、小さな扉があり、その向こうに狭いキッチンがありました。ムッシュ・ポルはもう、薄い緑色の薔薇模様の小さなカップに、温かいお茶を注いでいました。「チコルには、ミルクをたっぷり入れてあげよう。これは外国から取り寄せた特別なお茶でね、子供にもとてもいいんだよ。体がとても温かくなる」ポル氏は、とてもやさしそうな声で言いました。チコルは、ポル氏が大好きでした。ポル氏は、本当にやさしくて、とてもきれいな声で、いつも歌うようにやさしいことを言ってくれるからです。

「ありがとうございます。ごちそうになりますわ」コペル嬢も、キッチンの小さな椅子に座ると、テーブルの上のお茶を喜んでいただきました。お茶は、薔薇のような、ほんとうに良い香りがして、まるで心が溶けていくようでした。何かが芯から温まって、寒い心に一枚、透明な温かい上着を着せてもらったような気がしました。コペル嬢は、何やら安心して、つい、ポル氏に言ってしまいました。

「もうすぐクリスマスですわね。ペール・ノエルにわがままを願って、何かいいものを、弟に下さらないかと、考えているのですけれど…」
するとポル氏は、灰色の髭をなでながら、少し首をかしげて、しばし何かを考えるような顔をしました。
「そうですねえ。きっと、願いはかなうでしょう。チコルは、本が好きだったねえ」
「うん、好きだよ。お父さんが買ってくれた本を、まだ持っているよ。小さな虫の本だよ。きれいな虫の絵がいっぱい描いてあるんだ。お話の本もあるよ。頭のいい小さなヤギがね、こわいゴブリンをやっつけるんだ」
ポル氏は、チコルに、小さなビスケットをあげました。チコルは大喜びで、それを食べました。コペル嬢は、お礼も言わないで食べるんじゃありませんと、ちゃんと弟をしかりました。チコルは、素直に、ごめんなさい、と言いながら、恥ずかしそうに、半分かじったビスケットを手に持って、ポル氏の顔を見上げました。ポル氏はただ、いいんだよ、と笑って言いました。

ひととき、温かいお茶とお菓子をいただき、体と心を温めてもらった後、コペル嬢は深くポル氏にお礼を言って、弟を連れて奥のキッチンから出ました。すぐに外に飛び出していったチコルを追おうと、コペル嬢が駆け出そうとしたのを、ポル氏が呼びとめました。
「マドモワゼル、すまないが、少し助けてくれませんか」
「え?」と言って、コペル嬢が振り向くと、ポル氏は、一冊の本を、コペル嬢に差し出しました。
「これは、最近、ある引っ越した家から引き取った本なのですが、ちょっと傷みがあるものですから、売り物にならないのですよ。捨て場所にも困るもので、仕方なく置いてあったのですが、よかったら、ひきとってはもらえませんか。そうしてもらえたら、助かるのですが」
ポル氏が差し出した本は、きれいな動物や鳥の絵がいっぱい描いてある、古い図鑑でした。表紙のふちに少し傷がありましたが、コペル嬢は、目を輝かせました。きっとこれなら、弟が喜ぶわ、と考えました。
「いいのですか? 少しなら、お金はありますのよ。安いものなら、わたし買えますわ」
「いや、どうせ捨てるものですから。どうかもらってください。その方が、わたしには助かるのです」
ポル氏が、どうしてもというので、コペル嬢は、喜んでその本をいただき、それを持っていたカバンの中にそっと隠しました。

「ペール・ノエルに乾杯しましょう」とポル氏は言いました。「ええ、おやさしき神様に」とコペル嬢は言いました。そうしてコペル嬢は、ポル氏にお礼と挨拶をすると、あわてて弟を追いかけていきました。明日、仕事からの帰り、文具屋さんによって、きれいな包み紙を買いましょう。リボンも少しいるわ。それだけなら、なんとかなるわ。ああ、よかった。コペル嬢は、弟の手を握りながら、温かい思いを胸に抱きしめました。

家に帰ると、コペル嬢は弟に夕御飯を食べさせ、一休みした後、またミシンに向かいました。そしてミシンの横にある籠の中の、はぎれの山を探りました。そのコペル嬢に、チコルが、小さな声で言いました。
「ねえ、お姉さん、あの人でしょう? 誰も知らない王様って」
それを聞いたコペル嬢は、驚いて、弟を振り向きました。
「まあ、チコル! どうしてそれを知ってるの?」
「おかあさんが、教えてくれたんだよ」
「まあ、そんなはずはないわ。だっておかあさんが死んだとき、あなたはまだ赤ちゃんだったじゃないの」
「うん、ぼくはそのとき、乳母車の中にいたんだ。でも、おかあさんの言うことがね、ぼく、わかったんだよ。ほんとさ。おかあさんはね、ポルさんのことを指差してね、ぼくにこう言ったんだよ。『ほら、あの人が王様よ。でもね、これは、ほとんど誰も知らないことなの。知っているのはね、ほんの少しの人だけよ。ポルさんも、わたしたちが知ってることは知らないわ。小さなチコル、大きくなったら教えてあげるわね。バイオリンの音が聴こえる人だけ、知っているのよ。誰も知らない王様が、誰かと言うことを』…」

コペル嬢は、ただただびっくりしていましたが、チコルを強く抱きしめて、言いました。
「チコル、不思議なことね。でもそれは、決して誰にも言ってはいけないのよ。もう、決して言ってはだめ。知っていても、誰にも言ってはいけないことなのよ」
「うん、わかった。ぼく、誰にも、何も言わないよ」

コペル嬢は、小さなチコルを、ベッドに寝かしつけると、またミシンの横の籠に向かいました。そして籠の中から、小さな青いはぎれを取り出しました。
コペル嬢はその青い布で、ポル氏のために、小さなブックカバーを縫おうと思っていました。

コペル嬢が、寸法を測り、布の上に印をつけ終わったころ、窓の向こうから、風に乗って、透き通るような、バイオリンの音が、聞こえてきました。コペル嬢ははっと窓を振り向いて、外を見ました。まるで、絹のように薄くしたガラスのカーテンに、そっと触れて揺り動かしても、決してそれを壊すことはないような、とてもやさしい、やさしい、やわらかな、美しい音楽でした。その音を聴いていると、コペル嬢の胸の中で、ことことと、温かい小鳥のようなものが動き出し、とてもそれが幸福で、コペル嬢は、どんなにつらくても、明日もちゃんと、前をむいて、りっぱに生きていけるような、気がするのでした。

国には不思議な王様、住んでいる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
こりすが踊って、歌ってる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
しろかねのお月さん、聴いている。
黙ってそれを、聴いている。
王様、ひとりで笛を吹いている。
カチカチ鳴るは、金時計。
こばとがきょとんと顔を出し、笛の調べに耳澄ます。
王様、笛を吹いている。
ひとりで笛を、吹いている…。

コペル嬢は、かすかな声で歌いました。誰も知らない王様を知っているのは、あのバイオリンの音を聴くことができる人だけ、それも、ポルさんに会ったことがある人だけよ。それを教えてくれたのは、亡くなったおかあさんでした。なんで弾いているのかは、誰も知らない。けれど、王様がバイオリンを弾かないと、とても困ることになるんですって。王様は、自分のことは誰も知らないと思っているから、誰にもこのことを言ってはだめよと、おかあさんはそのとき、教えてくれました。

ポル氏は、今夜も弾いているのだわ。あの美しいバイオリンの調べを。

コペル嬢は、窓の向こうから流れてくるバイオリンの音に耳を澄ましながら、思いました。そして、銀色のミシンに向かい、自分もその音に合わせるようにやさしく、ことことと、ミシンを踏みました。

青いブックカバーを、ポル氏は喜んで受け取ってくださるかしら。コペル嬢は、まるで宝物に触れるように、銀のミシンを、やさしく動かしました。その音を子守唄に、チコルはベッドの中ですやすやと眠り、夢の中で、こりすといっしょに、踊っていました。

(おわり)


 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガラスのバイオリン

2024-11-13 03:33:09 | 薔薇のオルゴール

国には不思議な王様、住んでいる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
こりすが踊って、歌ってる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
しろかねのお月さん、聴いている。
黙ってそれを、聴いている。
王様、ひとりで笛を吹いている。
カチカチ鳴るは、金時計。
こばとがきょとんと顔を出し、笛の調べに耳澄ます。
王様、笛を吹いている。
ひとりで笛を、吹いている。

ソランジュ・カロク夫人は、ピアノを弾く手を止め、背後に並んだ子供たちを振り返りました。カロク夫人は、音楽の先生で、小さな白い家に住んでいて、町の子供たちを集めて、合唱団を作っていました。今日はこの、国に古くから伝わる、小さな童謡を、みんなで歌って、練習していたのです。

「マダム・カロク、ピトが歌詞を間違えました」ひとりの子供が、隣の子供を指差して言いました。「ネズミじゃないよ、こりすだよ」「そんなことくらい、いいじゃないか、かわりゃしないよ」「大違いだよ、ネズミは木にはのぼらないだろ?」
喧嘩をはじめた子供たちに、カロク夫人は、手を腰に当てながら、きれいなアルトの声で、厳しく言いました。
「やめなさい、ピトにテト、間違いは誰にもあることよ。テトもそんなに何度も人を責めてはだめ。ピトも、間違ったら次には直せばいいことなのよ。みんな、乱暴なことを言ってはだめよ。それだけで、人の気持ちが苦しくなって、とても辛いことが起こってしまうの。ことばは、もっとやさしく使うものよ。そうでないと、みんなが困るのよ。さあ、今日は、あと一回だけ歌って、終わりにしましょうね。ピト、ちゃんと今度は間違えないようにね」
すると、ピトは、茶色の巻き毛を揺らしながら、素直にこくんとうなずきました。ピトは誰よりも、優しいカロク夫人のことが、大好きでした。

合唱の練習が終わると、子供たちは、わいわい騒ぎながら、それぞれにカロク夫人に挨拶して、帰っていきました。カロク夫人は、みんなが帰っていったのを見送ると、ひとつ、ほっと息をつき、微笑みながら、楽譜を閉じて、ピアノの蓋を閉めました。

カロク夫人が、夕食を終え、お茶を飲んでいたときでした。ふと、家の前の郵便受けの方から、ことんと言う音が聞こえ、カロク夫人は目をあげました。時計を見ると、もう七時を過ぎていました。こんな時間に郵便屋さんが来るものかしら? カロク夫人は首をかしげつつも、玄関を出て、郵便受けに向かいました。小さな筒の形をした郵便受けの中を見てみると、そこに白い小さな一通の封書がありました。カロク夫人はその封書を手にとって、家の中に入っていきました。封書には、表に「ソランジュ・カロク様」とだけ書いてあり、裏には、「ウジェーヌ・ポル」と小さく青い文字で書いてありました。

「ポルさん? どなたかしら、知らない名前だわ。でも、なんてきれいな字なのかしら。きっとすてきな方なのでしょうね。青いインクがとてもきれい。封書も、よく見ればまあ、白い鳩の羽根のようだわ」カロク夫人は、何かに引き込まれるように、自然に封書を開けました。中には一枚の小さな白い鳩の色のカードが入っており、そこにはこう書いてありました。

「ソランジュ・カロク様。
今宵八時、二番街の通り、北から三番目の胡桃の木の下にあるベンチでお待ちしています。とても大切な用があります。必ず来てください。  ウジェーヌ・ポル」

カロク夫人は時計を見上げました。まあ、二番街なら、今から行かないと間に合わないわ。なんてことかしら。カロク夫人は、何の疑問も持つこともなく、急いで上着を羽織ると、外に出て行きました。明るい月が、町を照らしていました。腕時計の針を見ながら、カロク夫人は急いで道を歩いていきました。

二番街に入って行くと、灰色の石畳の舗道に、胡桃の木の街路樹が並んでいました。月に照らされて、道は白く照り映えていました。北から三番目の木と言うと…あれだわ、カロク夫人は言いながら、少し小走りに駆けて行きました。その胡桃の木の下に、小さなベンチがあり、黒い帽子をかぶり、質素ながら品の良いスーツを着ているひとりの老人が、杖に手を預けて座っていました。カロク夫人は、二番街を何度も通ったことがありましたが、さて、あんなところにベンチなどあったかしら?と今初めて気付きました。でも、ベンチは確かにありました。カロク夫人は首を少しかしげながらも、ベンチに近づき、「ムッシュ・ポル?」と老人に声をかけました。すると、老人は白い髭を少し伸ばした顔をあげ、まるで懐かしい友達を見るような優しい瞳で、カロク夫人を見つめ、微笑みました。

「ああ、カロクさん、よく来てくれました。待っていましたよ。長い間、あなたを、さがしていたんですよ」
「わたしを、さがして?」
「ええ、ほんとうに、長い間」
そういうと、ウジェーヌ・ポル氏は、長々と深いため息をつきました。カロク夫人は、胸に疑問を抱きつつも、ポル氏がとても美しい声で、丁寧にことばを言うので、それが何やらこころよく、なんだかとても懐かしい友達に会えたような気がして、静かに、彼の隣に座りました。そして言いました。

「まあ、自己紹介もしていませんでしたわね。何かしら、初めでお会いする方ではないような気がしたものですから。失礼しました。ソランジュ・カロクと申しますの。親しい人は、ソルと呼びますわ」
「ああ、存じております。わたしは、ウジェーヌ・ポル。長いこと、この国の隅で、古本屋を営んでおりました」
「まあ、本を?」
「ええ、若いころから古書が好きでしてねえ。いろいろな本を扱いました。珍しい本があると聞くと、遠い町にも訪ねていったりしたこともあります。…けれども、ほかに、もっと大切な仕事が、ありましてね。滅多には、そんな遠いところにはいけなかったのですよ」
「まあ、大切な仕事と、おっしゃいますと?」

カロク夫人が尋ねると、ポル氏はまた深い息をつき、遠いはるかな昔を思い出すような瞳で、明るい月を見上げ、やさしく微笑みました。ポル氏は、歌うようなきれいな声で、言いました。

「バイオリンを、弾かねばならないのです。毎晩、毎晩。それも、とても難しいバイオリンでしてね。青いガラスでできているものですから、注意して扱わないと、すぐに壊れてしまいます。おまけに重くて、長いこと弾いていると、腕がしびれてくるのですよ。でも、そのバイオリンを弾かないと、とても困ったことになるものですから、とにかく、毎晩、弾かねばならないのです」
「まあ、それは、なぜですの?」
「地下室の、鳩時計が、とまってしまうからですよ」
「まあ、それは、困ったことですの?」
「ええ、とても、困るのです。何せ、時間が、止まってしまいますから」
ポル氏は、微笑みながら、静かに言いました。

カロク夫人は、しばらく黙って、ポル氏のやさしそうな横顔を見ていました。よく見ると、ポル氏は、本当に、とても年をとっておられて、息もしているのかどうかわからないくらい胸が細っており、冷たく青ざめた顔をしていました。カロク夫人の顔に、少し不安が横切りました。何か、とても、悲しいことが待っているような気がしました。ポル氏は、しばらく月を見上げて黙っていましたが、やがて、カロク夫人の方を振り返り、懐から小さな金の鍵を取り出して、それをカロク夫人の方に差し出しました。

「これが、地下室の鍵です。本当に、あなたに会えて、よかった。誰かが、時計をうごかさないと、時が止まって、皆が死んでしまうものですから。ああ、よかった。本当に。これは、とても、大切な鍵。別の名を、『誰も知らない王様の鍵』と、言います」
「誰も知らない王様?」
カロク夫人は、今日子供たちに歌わせた童謡のことを思い出し、少し驚きました。
「はい、わたしが、その、誰も知らない、王様なのです」と、ポル氏は言いました。「王は、いつも、地下室で、楽器を弾いていないといけないのです。そうしないと、みなが、困るのです。誰にも知られず、秘密でやらないと、いけません。誰かに知られると、バイオリンを壊されてしまうかもしれないので。ああ、あなたにだけ、言います。というのはもう、わたしは、バイオリンを、弾けなくなってしまうので、あなたに、次の王様を、やってもらいたいからです」
「わたしが? 王様を?」
「はい、あなた以外、できる人がいないのです。探していたのです。ずっと探していたのです。あなたに出会って、鍵を渡すまで、わたしは決して、死ねないのです。ですから、こうして、何とかして、生きてきたのです」

そう言うと、ポル氏は、悲しみと喜びの混じった深いまなざしで、カロク夫人の瞳を見つめました。カロク夫人はただただびっくりしていましたが、ポル氏が、とても真剣な顔をしていたものですから、まだよく事情はのみこめませんでしたが、ポル氏の差し出す金の鍵を、黙って受け取りました。すると、ポル氏は、安心したかのように、ほお、と長いため息を吐きました。すると、風船が縮まるように、少しポル氏の体が小さくなったような気がしました。

「よかった。これで、皆が助かる」そう言うと、ポル氏は、本当に、だんだんと小さくなって、しまいに、一枚の薄い影になって、するりと消えてしまいました。カロク夫人は、ベンチに座ったまま、ただびっくりしていました。さっきまでポル氏がいたベンチの上には、からっぽな風がそよりと吹き、月が静かな光を注いでいました。ふと、手のひらの上の、小さな鍵が、月の光をきらりと跳ね返して、カロク夫人に何かを語りかけました。すると、カロク夫人は、夢見るように、瞳の奥に、幻を見ました。どこか遠いところにある、白い部屋の中の白いベッドの上で、今まさに、心臓が花のようにしぼんで、死んで行こうとする、一人の老人が横たわっているのを。

「まあ、ポルさんだわ。ポルさん、いってしまうのね」カロク夫人の心が、震えました。そうして、ポル氏は、最後に、かすかに息を吸い込むと、本当に、いってしまいました。静かに、死んでいきました。すると突然、風がとまりました。ざわめいていた街路樹が、氷のように、動かなくなりました。カロク夫人はびっくりして、ベンチから腰をあげました。そして、町を歩きながら、町の様子を見ました。家々の窓の向こうで、人々が、人形のように固まって止まっていました。誰も、何も、動こうとしませんでした。月を見上げると、それもまるで空にはりつけた紙のように見え、まるで動いているようには見えませんでした。見ると、カロク夫人の腕にある時計の針も止まっていました。道の片隅で、一匹の猫が、後ろ足で飛び上がろうとした姿勢のまま、凍りついてとまっているのを見つけました。世界中で、動いているのは、カロク夫人だけでした。

カロク夫人は、何かにかきたてられるように、走り始めました。急がなければ。早くしないと、みんなが死んでしまう。カロク夫人は、家に向かって足を速めました。鍵を握りしめた手が、熱く燃えていました。

そしてカロク夫人が家に帰ると、普段、花の絵が飾ってある、台所の隅の壁に、見知らぬ青い扉ができていました。カロク夫人には、もうわかっているような気がしました。鍵が、みな、教えてくれたような気がしました。カロク夫人は、鍵を、その扉の鍵穴に、さしこみ、かきりと、回しました。扉はゆっくりと開き、その向こうに、地下に向かって降りてゆく、白い階段が、見えました。

カロク夫人はゆっくりと階段をおりてゆき、いきついたところにある白い扉を開けました。すると小さな地下室がありました。そこには不思議な窓があって、地下室だというのに、その向こうに、明るい月が、見えました。窓辺には、小さなこりすの人形がおいてありました。そして、その窓の下には、もう壊れて、弾けなくなった、青いガラスのバイオリンがありました。カロク夫人はバイオリンを持ちあげると、その重みと、あまりに壊れやすそうなやわらかさに、驚きました。ああ、ポル氏はずっとここで、このバイオリンを弾いていたのね。

カロク夫人は、バイオリンの、ただ一本残った弦に、そっと手を触れました。すると、花のため息のような優しい音が、かすかに星の咲く薫りのように耳に触れました。すると、カロク夫人の頭の中に、ふと、懐かしい記憶が蘇りました。ああ、それはよく、夜風にまじって、まるでさざ波のようにやさしく、カロク夫人の耳に聞こえてきました。空耳かしら? でも、確かに何か聞こえるわ。カロク夫人は時に、風に耳を澄ましました。するとどこか遠くから、それは澄んだ、やさしい音楽が、カロク夫人の耳元に流れてきたような気がしたのです。それは、聞いていると、なんだか胸にぽっと灯りがともって、本当に生きているのが楽しくなって、いつも笑っていてしまいたくなるような、とてもやさしい、きれいな音楽でした。

ああ、あれは、ポルさんが弾いていたバイオリンの音だったのだわ! カロク夫人にはようやくわかりました。

ああ、でも、わたしは、わたしは、どうしたら、いいのかしら? カロク夫人はバイオリンをまた元の場所におきました。ふと気付くと、壁に、小さな鳩時計があり、その時計もまた、止まっていました。

カロク夫人は、はたと思いいたりました。ピアノだわ。ピアノなら、弾けるわ。そう、カロク夫人が言うと、ガラスのバイオリンが、ことんと震えました。そしてそれは、見る間に、大きく青い影のように広がって、ひとつの青いガラスのピアノに変わりました。

カロク夫人は息を飲みました。胸に手をあてて、おそるおそる、ピアノの蓋を開けました。透き通ったガラスの鍵盤が、並んでいました。ちょっとでも力加減を間違えれば、みなこわれてしまいそうなほど、とてもやわらかそうな、鍵盤でした。これは、ほんとうに、優しく優しく、弾かねばならないわ。赤ちゃんにさわるよりも、もっと優しく、弾かねばならないわ。カロク夫人は、ごくりと唾を飲み込むと、とにかく、指で、はかない花の薄い花びらにおそるおそる触れるように、そっと軽く鍵盤を押してみました。ぽんと、快い音が鳴りました。すると、窓辺のこりすが、かすかに、動きました。

そう、ほんとうにやさしく、一枚の風さえ傷つけないように、やわらかな指で、弾かねばならないのね。ポルさんは、ずっと、そうしていらしたのね。なんてやさしい人だったんでしょう。

ああ、わたしも弾かなくては。カロク夫人は思いました。そして、指を、風の中を踊るように、やさしく、やわらかく、動かしながら、ガラスを壊さないように、とてもたいせつに、愛をこめて、ピアノを、弾きました。弾きながら、歌を歌いました。

国には不思議な王様、住んでいる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
こりすが踊って、歌ってる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
しろかねのお月さん、聴いている。
黙ってそれを、聴いている。
王様、ひとりで笛を吹いている。
カチカチ鳴るは、金時計。
こばとがきょとんと顔を出し、笛の調べに耳澄ます。
王様、笛を吹いている。
ひとりで笛を、吹いている。

カロク夫人が、ピアノを弾き始めると、鳩時計が、動きだしました。外の世界では、風が吹き始めていました。凍りついていた木々が、ざわめき始めていました。月がゆっくりと傾き、町を明るく照らしました。命がしばしとまっていた町の人たちも、動きはじめました。猫も、ぴょんと、とび跳ねました。時間が、動き始めたのでした。

カロク夫人は、ピアノを弾き終わると、静かに鍵盤から手を離しました。鳩時計がいつの間にか、動きだし、小窓から白いこばとが飛び出して、一声、ぽう、と鳴きました。こりすの人形が、回りながら、踊っていました。不思議な月の光が、地下室の中を流れました。

誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。

カロク夫人は、小さな声でまた歌いました。カロク夫人は、それから毎晩、地下室を訪れては、誰にも知られず、ひそやかに、ピアノを、弾き続けました。そして、今も、弾いています。時間がとまって、みんなが困らないように。

ないしょの、話です。誰にも言っては、いけませんよ。

(おわり)

 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする