日本にスティーブ・ジョブズのような天才的個人が居ないからと言って、嘆くことは全くない。
なぜなら、凡人が集まることで、天才の能力を軽々と凌駕することが出来るから。
そして、江戸の昔からそのような「コラボレーション能力」に長けているのが他ならぬ日本人だから。
『凡才の集団は孤高の天才に勝る…』キース・ソーヤー著の田中優子氏による書評。
文芸同志会通信さまより
ビジネス書の書棚には近づかない方なのだが、この本の題名を見て思わず手にとった。それは私が、江戸時代の都市部で展開していた「連(れん)」というものに関心を持ち続けてきたからである。連は少人数の創造グループだ。江戸時代では浮世絵も解剖学書も落語も、このような組織から生まれた。個人の名前に帰されている様々なものも、「連」「会」「社」「座」「組」「講」「寄合」の中で練られたのである。
さて本書は原題を「グループ・ジーニアス」という。著者は経営コンサルタントを長く経験し、企業にイノベーション(革新)の助言をすることを仕事にしてきた。同時に心理学博士で、そしてジャズピアニストだ。この組み合わせには納得。そこから見えるのは、個人の発明だと思っていたものが、実は様々な人々からの情報提供と深い意見交換を契機にしているという事実である。また個人のレベルでは十中八九失敗であるものも、最終的には画期的な発明がなされている。失敗が新しい時代につながる理由こそ、コラボレーションの力なのだ。
江戸の連には強力なリーダーがいない。町長や村長など「長」のつく組織は明治以降のものであって、町や村もピラミッド型組織にはなっていなかった。それは短所だと言われてきた。戦争をするには、なるほど短所であろう。しかし新しいアイデアや革新を起こすには、社員全員で即興的に対応する組織の方が、はるかに大きな業績を上げている。本書はブラジルのセムコ社やアメリカのゴア社の事例を挙げ、現場のことは現場で即時対応することや、規模を小さくとどめるために分割することに注目している。それが伝統的な日本の創造過程とあまりにも似ていることに驚く。
本書で提唱しているのはコラボレーション・ウェブ(蜘蛛(くも)の巣状の網の目)である。その基本の一つが会話だ。事例として日本の大学生の会話も収録されている。そこに見える間接的な言い回しが、可能性を引き出し創造性につながるものとされている。日本語(人)の曖昧(あいまい)さと言われるものが、実はコラボレーションの大事な要因なのだ。相手の話をじっと聞き、それを自分の考えと連ねることによって、新たな地平に導く可能性があるからだ。これは相手まかせではできない。能動的な姿勢をもっていてこそできることである。人を受け容(い)れるとは能動的な行為なのだ。
江戸時代までの日本人は、集団的なのではなく連的であった。本書もピラミッド型集団とコラボレーションとの違いを明確に区別している。こういう本を読んで、日本のコラボレーションの伝統と力量に、今こそ注目すべきだ。
(金子宣子・訳)(毎日新聞 2009年3月22日 東京朝刊)