多古 城あと整備日記

町の歴史講座

町の歴史講座があったので行ってきました。講演の内容より、文化ホールのエントランスに展示してあったパネルなどに興味を覚えました。


これは各種御城印と、多古城郭マップ  携帯で撮ってピントが悪いです。すみません。 こういうのが展示してあったんですねえ。


この城郭マップは、板と板を張り合わせてあって、水面とか、陸地部分、城跡の隆起が分かるようになっています。これも面白いですねえ。やはりこれを見ると、当時は水運が中心で、その航行を監視して、城の存在を知らしめる感じだったのでしょう。(陸路ではなく河川が中心だった)  こんなのもあったんですねえ、今まで出し惜しみしてたのかな。


これは多古城跡の発掘調査の航空写真ですね。 全面的に削られたような写真ですね。
こう見ると面積が広大ですね。 右上に曲がりくねった国道が見えて、左下にはそこに降りてゆく切通し、現在はコンビニのわきを通って、国道に接続しています。

ここは城郭として色々仕掛けのしてあるところもあったようだし、城と同じ高さの大宮神社もあって、それ以外の低い土地の、現在住宅団地になっているところあたりに、やはり警護の人なり、民衆がいたのかもしれません。

出城もあったから、それを加えればかなりの広さだったのだが、なぜそれを切り離して切通しを作ったのか謎です。当時の公共工事のためだったのか、幕府の脅威とならないように力を弱めるためなのか、はたまた、大名行列の道が狭くて、参勤交代の道を変更するためだったのか、・・・ まあ、なにか邪魔だったんだろうねえ、出城という象徴が戦国時代以降は不要となったのか、あまり派手にしてると幕府から金を巻き上げられるのを危惧したのか? 色々空想できます。


こちらは志摩城の模型です。 右に分断された三角の土地が城跡です。今は八幡神社があります。(妙見ではないんです) 左側の大きな土地が現在の島集落になっています。10戸くらいずつのまとまりになっていますが、この集落の構造が、迷路のようになっています。

この城は多古城のような防御力・攻撃力はなかったかと思いますが、対面する並木城とともに、河川への監視力が求められた城かと思います。

以上、思わぬ取材が出来まして、多古城郭保存活用会も、ぜひこういう展示物があるならあると、会員に紹介をしてほしいと思います。

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